大田原市加治屋の歴史〜江戸時代から昭和中期〜

平成29625日発行、同年10/31修正

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<はじめに>

加治屋郷土誌(以下郷土誌)における江戸時代から昭和中期までの記事を時系列に並べ直し、私見を加えつつ整理したい。また、明治40-42年・昭和4年・昭和27年に測量された陸地測量部発行の地形図[7]や大田原市史など資料を参考に、より確からしい加治屋の歴史を探りたい。下に最も参考にした地形図を挙げる。地形図は明治40年測量塩原と明治42年測量大田原を合成し加治屋全体を表したもの。その下の地形図は、そこに現在の加治屋の境界線、道路、川、目安になる施設などを書き込んだもの。さらにこれらを、興味本位でGoogleMapに書き込んでみたので、参考になれば嬉しい。

これらの地形図を読むにあたり、現代に存在しない地図記号があるので、明治40年代の地図記号をまとめた以下のページを参考にされたい(http://goto-seikotsuin.sakura.ne.jp/Map_symbols_of_the_Meiji40s.html)。また、こういう古地図に興味のある方は、国土地理院や図書館で入手できるし、やや新しめでよければ昭和4年頃のものならスタンフォード大学が無料で公開している。

●加治屋に関連する昔の地名や水源について

本題に入る前に加治屋に関連する昔の地名や水源の説明をしたい。下に加治屋郷土誌43ページ掲載の地図を示す。現在の場所との比較は上に挙げたGoogleマイマップ「明治42年の加治屋(大田原)と関連地域」を参考にされたい。

・旧日光北街道:現在のカワチ薬品前の日光北街道ではなく、大田原ニコンの通り。

飲み水の汲み場:明治25年ごろまで原町の栗山と鷹巣茅場まで飲み水を汲みに行ったらしい。

・鷹巣茅場:郷土誌には三斗内茅場とあるが、三斗内の人に言わせると鷹巣茅場であろう。現在のニコン工場があるあたり。

・栗山:南クボの北方。明治42年測量の地形図で広葉樹になっているところであろう。加勢友助が栗を植えたところと言われる。美原のにちにちそう辺り。

・小丸山:加治屋との境界線中間あたりの二つ室区域。三斗内の大久保貞蔵さん、加治屋の溝口定次郎と木下安衛門が所有していた二つ室の5町5反の土地を小丸山と呼んだが、加治屋開墾が買い取り水源にした。

・大久保堀:一号水路ともいう。小丸山の大久保さんの土地が低地で堀を掘って水を出し、大イヅンボに並行する形で水路を作り二つ室と加治屋を結ぶ道で合流させた。

・大イヅンボ:二号水路ともいう。加治屋の有力な水源。最初の水源は上6班西側で、クヌギ林(広葉樹)の中の至る所のくぼみに水がたまり「イヅンボ=池」を形成しており、そこから水を引いていたのだろう。そこから先が難解で、郷土誌ではズイドウを堀と同義にとらえている節があるので読み切れないが、おそらく明治35年ころから大イヅンボに水が出なくなり堀を掘り進め、昭和2年に堀による集水をあきらめ、地下トンネル=隧道を作り、その隧道は「二つ室境大興電機寮の裏手まで伸びた」というのだろう。さらにその上流には湿地帯の沢村原と呼ばれる沢村の入会地があり、昭和2年以降はそこからのわき水を導入する工夫を凝らしたらしい。

・南クボ:加治屋中組に接する現在浅香の地区(36°51'11.8"N 140°00'13.8"E)あたりの窪地。最初は10m四方の溜池だったが、いつのころからか原町の栗山から水路を引いている。六号水路と呼ぶ。栗山より上流は二つ室頭無に通じこの水脈沿いに足軽屋敷があったと伝わる。

・二つ室頭無:現在の那須塩原市緑のこと。https://www.google.com/maps/d/u/0/edit?hl=ja&authuser=0&mid=1o4CnNAVO261Gc_D3Po34Q_9YmrQ&ll=36.8708190240422%2C139.99739533932495&z=16より引用。「緑は、かつて頭無(かしらなし)という地名であった。明治10年代、開拓地に入植した人々が水を汲みに行った場所だったそうだ。この東部に現在も2ヶ所の湧水地があり、かつては4ヶ所の湧水地があったという。『頭無』とは、大雨のあとなどに出釜がなくても水の湧くところを言ったようだ。 金丸にもこの地名があるという。参考文献:西那須野町の湧水と小川

・堤防:東組領域で、明治26年頃から土堤を築き湧き水を溜める工夫をし始めた。いわゆるダムなのだが、通称「堤防」と呼ぶ。堤防一帯は当時湿地であったらしく、松の枝を束にしたものを基礎にするなど昔の人の賢さに驚く。第一堤防から第四堤防まで四つの溜池を築く。第一堤防はおおよそ天端1.2m、土堤幅2.4m、高さ2.4m、溜池の面積は450坪(1.5反)、水の深さは1.8mほどであったという。東側に排水溝を設け第二堤防に流す。第二堤防は第一と同じ規模で、東側沿いに1.8m程の水路があり二本の丸太橋が掛かっていた。透き通った奇麗な溜池だったという。柳の大木が水面すれすれまで横たわり、その枝は3mほどで、子供らが木登りをして遊んだという。はや、うなぎ、どじょうが生息していたらしい。第二堤防から第三堤防の途中、至る所から水が湧いていた。ハンノキの大木が群生し蔓が巻きつき、ガマガエルとその卵が足の踏み場もないほどあったらしい。第三堤防は、おおよそ横100m、縦200m、深さ4mの規模で、その土堤は天端が1.8m、土堤幅2.1m、高さ2.4mほどであり、杉林に囲まれ昼でも暗く涼しい場所だった。西郷農場が鯉の放流をし、50センチほどの大きい鯉がよく飛び跳ねていたらしい。手入れのために溜池を干上がらせたときは、鯉やうなぎやハヤが跳ね回り村中総出で収穫し、背籠4つほどになったものを西郷家に贈ったという。よく子供の水遊び場になっていたが、奥まで行った人がいないほど広かったという。南側の水路は旭桜の東側に流れ、堤防中ほどからの水路は第四堤防へ流れた。第四堤防による溜池は明治42年の地形図で認められる。細長くおおよそ幅30m、長さ300m、水深2mで、周囲には雑草が生い茂っていた。ここでも改修のため水を抜いた際、住民総出で魚取りをし、胴回り30cm以上、長さ1m以上ものウナギが取れたという。これらの堤防は第三堤防は若干の名残を残すのみで外は全て昭和12年頃に埋め立てられ跡形もない。

・加勢の地と加勢の田:明治中頃、加勢熊次郎より加治屋開墾が土地を購入する。その窪地から水が湧き、水田を開発する。本稿の「明治14年、加治屋区原初の200町歩と『加勢の地』」でその面積を考察する。また昭和初期、大田原競馬場であったとかその馬場であったという。

・狐山:10坪の小高い塚があり、南面に狐の住みかといわれる横穴があったことから狐山と呼ばれる。現在塚は残らない。松が植樹されていた。明治の頃、この松を塩原御用邸に献納したらしい。

・四万本(シマンボン):松の植樹をしていた区域を言う。北に加治屋街道、東に百村川、西から北に通称「堤防」の水路に囲まれた区域がおそらく四万本であろう。自作農創設の時、西郷家より一戸に付き5畝ずつ54世帯の合計2.7町歩をこの土地から贈与された。P43の挿絵から四万本のうちおよそ半分が贈与地であることを示しているから、松の植樹に要した敷地は5.4町歩と推定。

・宮の田:西郷神社維持費用の捻出のため共同で耕作した田を宮ノ田と呼んだ。事務所敷地から水を引いている。近くに農場前から親園共有地にかけ幅十間ほどの細長い縦松とよばれる松林があった。明治42年測量の地形図にすでにあり7反程度であったが、年々耕作範囲を広げたようで昭和4年測量の地形図では、その細い松林と北に接する道路の間で北北西方向に広がっている。自作農創設以降は中野さんの所有になる。

・外目黒:加治屋の南端の区域。西郷家宅のある目黒にちなむ。外目黒という地名が成立するためには「目黒」がないといけない。外目黒が加治屋の「南端」であることから、加治屋区の「中心」に目黒を設定したはずである。とすると農場事務所の「愛称」は目黒であったのかもしれないがそういった記述はない。

・牛の原:加治屋開墾第一農場の東側に広がる原っぱ。加治屋中3班あたりだが、ここで乳牛35頭の放牧をしてみたがうまくいかず明治20年までに撤退。

・安藤の畑:加治屋開墾第一農場事務所敷地内の東端。総業初年に那須開墾社の安藤さんがプラオを使って開墾して見せた土地であろう。

・バラザワ堀:漢字で表すと荊沢堀。現在の百村川は治水工事により流れが変わってしまったが、現在の百村川の事である。郷土誌には外にハラザワとも書かれているが、その元は荊沢だろう。

・沢村原:加治屋に接する二つ室区域の萱場。

・赤坂:加治屋から大山邸に向かう道の途中、二つ室と加治屋の境に坂があったのだろう。西郷どんの住まいにちなみ赤坂と名付けたらしい。

・権現坂:旧日光北街道の加治屋と一区の境に、おそらく坂があったのだろう。ここを「偉い人」が良く通ったので権現坂と命名したらしい。

・用水路:明治後半より湧き水が生じそれを利用すべく相当数の水路を掘っている。それら用水路をまとめる。1号水路…大久保堀。2号…大イヅンボ。3号…小丸山から加治屋墓地にかけて。4号…上四班区域に水源。5号…那須疏水第四分水から取水し農場事務所が24個の水利権を持ち飲用と水田用に利用したらしい。郷土誌では水路の経路など不明としている。不明な部分を考えてみたい。水利権1個とは毎秒1立方尺≒28Lの水量のこと。それが24個というので、この5号水路には毎秒672L流れていたという。仮に1秒間に40cm水が進むとすると、幅150cm水位100cm位の水路で毎秒600Lが得られるので大体このような規模であろう。一区から流れてくる現在の那須疏水も大体その規模であるから、この5号水路には那須疏水の大部分が流れていたようである。五号水路の経路が不明と加治屋郷土誌はいうが、第四分水から取水している用水路は西組を南北に突っ切るこの水路ただ一つしかない。加治屋の人は、西組を通るこの水路が那須疏水で、百村川に流れる部分は排水路であるという。しかし、那須疏水には必ず柵があることを考慮すると、それに矛盾する。これらを総合すると、この西組を南北に流れる用水路が5号水路で、那須疏水第4分水から大部分の水を引いていたため、こちらがその本流であると思われたのではないだろうか。これだけの潤沢な流量は農場の独占であったようだ。6号…栗山を水源とした南クボ堀。7号…中組加治屋街道上流(36°51'09.5"N 140°00'09.9"E)辺りに水源。8号…不明。9号…別称シンボリ、第二堤防から南方へ給水。10号…ハンヌキ山に水源。11号…東組36°51'08.9"N 140°00'37.4"Eあたりを水源に南へ第三堤防上流に続く。12号…西組区域、農場事務所敷地内を水源に宮の田に給水。13号…不明。14号…八幡神社あたりに水源を持ち外目黒に給水。15号…第二堤防から引水。16号…第三堤防から引水。17号…第四堤防から引水。これら水路が全て完成するのは大正時代の中ごろという。

<古墳時代>

●西郷神社のある小山の古墳の可能性について

西郷神社のある場所は小山になっている。平地が広がる中にポツンと小山があることに考古学者大山柏(昭和40年頃の人)が古墳の可能性を指摘したという[1]。しかし、現時点をもっても古墳としての認識はなされていない。まず、周辺から土器などの出土品が出ていないことが、古墳でない強い根拠であると学芸員さんに教えてもらったことがある。加治屋から土器は出ていない。また、那須疏水が来ていない明治初期には飲み水を求めて加治屋外に足を運んでいることから古墳の頃も水利は乏しかっただろう。通常古墳は集落の直近に作られるものだけれど、この小山の直近に大きな集落を形成できただろうか。さらに、地形図を眺めると、二つ室からの山並がこの小山と直線上に並んでいる。古墳だと推す要素が少ない。

<江戸時代>

●江戸時代、まだない加治屋区域の風景

江戸時代、その頃この地に加治屋の名前はまだないが、その区域の中心を日光北街道が横切っている。人の通りはあったのだろうが、住人は居たのだろうか。この頃の加治屋の風景を想像してみる。まず明治時代の話になるが、その初期においては、加治屋住民は飲み水を求めて原町や鷹巣まで汲みに行っている。明治18年に那須疏水が那須野ヶ原を横断することでその領域に地下水が生まれ、明治後期になってようやく3m程度の浅い井戸でも水が汲めるようになったという。また、乾燥と空風がひどく、猛烈な風が乾いた耕土を簡単に舞い上げてしまい畑作も困難だったらしい。これらから考えると江戸時代の加治屋区域は、川も湧き水もないから稲作もできず、井戸を掘っても水が出ず飲み水もない。風が強くて畑も作れない過酷な土地柄であったのだろう。さらに、那須野ヶ原では頻繁に野火が起きていたという。一度火が付くと瞬く間に一面焼け野原になるような土地で、後にも述べるが隣町の六本松は8年間のうちに2度も焼け野原になっている。那須野ヶ原にはそういう野火を逃れた松の大木がまばらにポツンと立っていたらしい。松にとってはいい土壌であったようだが、人間にとってはとても生きていけない。

歴史的に見て加治屋に人が住んだ可能性があるとすれば、以下の時期であろう。江戸時代後期の天保13年(1842年)から嘉永3年(1850年)の期間、加勢友助が六本松を中心に加治屋を含む二つ室までを開拓[2]しているらしい。しかし明治14年那須開墾社が土地の払下げ申請を国に行った時には加治屋に住民は居なかったようである。那須開墾社は、国有地であった現親園五本木あたりが放牧に利用されていることを知り申請地から省いている[1]ように、住人や土地利用の有無を確認しているようだ。

●天保13年(1842年)、加勢友助が大田原藩領開拓の許可を得る

加勢友助のことに触れる。彼は米沢藩士で当時竜言寺町に住んでいたらしい。文政8年(1825年)、加勢友助34歳の時、博打を行った罪により藩から追放される。その後、米沢織を全国に売り歩く。那須野ヶ原を通りかかった時に開拓の発想を得たらしい。天保11年(1840年)に大阪堂島の穀商浅野定四郎と阿波の冨商山口又兵衛と開拓の約束[2]をし、天保13年(1842年)に大田原藩より以下の許可を得ている。原文で示す。

「奥州街道東西野之内百町堅二百五拾町之間其方共同開発畑に仕度願いに付き右の地所相渡候。尤拾六年目より金百両夫より百両宛相増二拾五年目より金千両年々上納可致候且大望の企てに付き給人格申付公私諸掛り物用金に至る 永々免許申付候也 天保拾二年拾二月 大田原主計外八名連署 浅野定四郎殿 山口又兵衛殿 加勢友助殿 右の免許永々不可有相違者也 飛騨守」

現在の感覚に訳してみると、1町≒109m、1両≒10万円であるから、「奥州街道の東西の幅約11km、南北約27kmの土地を15年無料で貸してあげるから、16年目から1000万円、人夫からも1000万円、25年目以降は1億円、毎年納めてね。」と言っている。

まず許可された範囲を考えると、奥州街道を基準に書かれているから戸惑うが、東西11km南北27kmは地続きの大田原藩領全土にほぼ等しい。「大田原藩領ならどこでも開墾していいよ」ということである。旧高旧領取調帳によると、北の境に赤淵村・南の境に西戸野内村・東の境に寺方村・西の境に蟇沼村までが地続きの大田原藩領であり[4][5]、飛騨守が示した数字に遠くない。大田原藩領を地図に示す。

実は明治期の戸田開墾・青木開墾・東原養蚕場・埼玉開墾・谷中開墾・松方開墾・三島開墾・那須開墾社・加治屋開墾はすべて大田原藩領であり、明治より前は那須西原とよばれる未開拓地ばかりだったのである。上納金の金額からして相当期待したのだろうか。飛騨守の許可文を真に受けて奥州街道を基準に考えてしまうと、大田原藩領内の奥州街道は北の境の中田原から南の境の六本木までの4q程しかなく、縦27qから大きく外れてしまうから理解が難しくなってしまう。

●加勢の開拓、開業と挫折(〜嘉永三年1850年)

天保13年(1842年)許可を得た三人は以下の契約をする。浅野さんと山口さんが開拓資金を出し、加勢さんが開拓事業の支配をし、試しに栗の植樹から始め、開墾地は永久に三人で共有し、収益は三等分するとした[1]。現在の大田原市富士見の浅野神社付近を当時六本松といい、そこに事務所を置き人夫を数十人雇い開拓を始める。大田原藩に出した事業計画は栗、柿、梨、桃の果物と漆や櫨(ハゼ)、和紙の材料の楮(コウゾ)など産業材料を植樹するというものだったらしい[2]が、郷土誌には「栗苗を植えるが手入れせず草伸び放題(p111要約)」と、実際目にしたような記載があり、栗しか植えなかったのだろうか。原町の栗山と呼ばれる場所は加勢開拓の名残といわれている。それでも友助の時代以降は「開墾地を耕作するに留まる(那須郡誌)」らしいので、友助の時代に加治屋から二つ室、一区町の一部まで開拓したという[2]。開拓を始めた2年後の弘化元年(1844年)に一度目の野火に会い全滅する。事業計画の通りであれ栗しか植えていないのであれ、たった2年では収穫は得られるはずはないが、若月さんの加勢友助の研究[2]では当初順調であったともいう。野火後、気を取り直して事業継続するも、その5年後の嘉永2年(1849年)、資金援助者の浅野さんと山口さんが続けざまに死去された折には、呆然と「命なり我が事休す」と嘆いたらしい。またその頃、再び野火に遭い2度目の全滅をしているらしい[2]。翌年嘉永3年(1850年)、友助は米沢藩に許され帰藩する。米沢藩から追放されてから25年も経過して開拓資金出資者がいなくなったタイミングでの帰藩であるから、加勢友助の陳情により許され、加勢自身が米沢に帰りたかったのだろう。

●浅野村について

「加勢友助は六本松を本拠地にして開拓を起こし、浅野村を起立させた。」というものが通説であろうが、本当にそうであろうか。
明治42年の地形図に、親園の北側に隣接する形で親園ではない名前の分からない集落が見られる。現在、浅香五丁目の区域で、親園郵便局より南方にある(36°50'10.0"N 140°00'57.5"E)。偶然、浅香5丁目に古くから住む人に話を聞くと「浅香五丁目は昭和40年頃まで浅野という地名であった。現在の親園郵便局(浅香五丁目)辺りが浅野の中心だった。」という証言を得られた。六本松に浅野八幡があるので疑わなかったが、六本松に浅野村が起立したという認識は間違いだろう。
とすると、加勢の開拓が発足する以前から浅野村は現親園郵便局の南側に存在していて、加勢の開拓は浅野村の管轄下に置かれたのではないだろうか。もしくは六本松自体が元々浅野村の区域だったのかもしれない。浅野八幡の由来は、その本郷の浅野村に由来するのだろう。

●嘉永6年(1853年)、加勢の開拓、再開から撤退

嘉永6年(1853年)友助の子の信四郎[6]がその意思を継いで開墾を継続し、さらにその子熊次郎と継がれ明治中頃まで続いたという[2]。加治屋地内の加勢の田が加勢熊次郎から購入したのも明治中頃というので、開拓から手を引く際、加治屋開墾に譲り渡したのだろう。ちなみに加勢の地から水が湧くのはそのあとで、「西郷農場が購入の後、湧き水が出て水田にした([1]p111)」らしい。昭和5年頃、競馬場だったとかその馬場だったとか言われている。

ここで加勢家の系統を整理したい。大田原市史後編[6]によると一般的に友助が熊次郎を養子にもらったと言われているのは誤りであると強調した上で、友助、信四郎、熊次郎と実子の系統であるという。若月さんの研究[2]では友助の娘の養子が信四郎であるということで相違があるが、信四郎が友助の事業の次の後継者であることは一致している。現在、六本松付近に加勢さんの苗字はない。

<明治時代>

●那須開墾社と加治屋開墾

明治9年。内務卿大久保利通の指示のもと、東北に開墾可能な原野があるか調査され、那須野が原、福島の対面が原、青森の三本木原がその候補に挙がる。明治9年10月29日、佐久山宿の印南丈作と矢板村の矢板武が那須野が原の開拓を決意する。明治13年2月、印南と矢板は、那須開拓社を創設。株式を募集し、その参加者66人集まる。明治13年10月23日開墾開始。明治14年2月5日、第一回総会を開き、那須開墾社に改名。3000町歩、第一農場(那須塩原市一区町:親王台付近に事務所跡)第二農場(那須塩原市三区町:烏ヶ森公園西に200m付近に事務所跡)を中心に開墾する。土地の不足を感じるほど入社希望者が多かった。那須開墾社の農場と大田原宿の間には、さらに未開墾国有地1000町歩が残っていた。政府が開拓奨励の模範農場を設置するために残しておいた土地であったが、明治14年6月、那須開墾社は、親園村民が牧場として利用していた100町歩を除き、残り900町歩の払下げを申請し9月17日に許可されている。この100町歩は五本木地区であろうか。陸地測量部明治42年測量の地形図をみると五本木地内に民家が二軒あり、加治屋区の区域はそれを避ける形になっている。この景気のいい話を聞きつけた大山巌と西郷従道は、その半分をくれと申し込んできた。保晃会(ほこうかい)で顔見知りであったこともあり仕方なく那須開墾社はそのうち500町歩を分譲する。現在の下永田・永田町あたりと加治屋である。残った400町歩は千本松と二つ室・緑だろうか。合計するとおおよそ400町歩になる。

大山と西郷は、明治15年3月22日、佐久山に一泊。翌23日、藤川栃木県令、樺山栃木県大書記官、塩谷分郡長、那須郡長、河内郡長、護衛巡査車夫等21名を引き連れ那須開墾社に宿泊。翌24日、塩原へ赴く。その際、矢板、田代、幹事二人も同伴。28日まで塩原に滞在。29日に再来社、印南矢板らと懇談し、加治屋開墾の援助を要請し建設資金を渡す。

●明治14年、加治屋区原初の200町歩と「加勢の地」

明治14年、那須開墾社から譲ってもらった500町歩のうち、300町歩は永田区で、残り200町歩が加治屋区であった(p41)。その原初の200町歩の領域を考えてみたい。考察の際登場する加治屋地内の地名は後に紹介しているので参考にされたい。明治40-42年地形図[7]をGoogleMapに照らし合わせて当時の加治屋区の面積を測ってみると、加治屋区の面積は約230町歩ある。この面積に小丸山とバラザワ東の地は含めていない。一般的に熊次郎から購入した「加勢の地」は約9町歩(加治屋郷土誌では8.8町歩)と認識されているが、原初の200町歩から余る30町歩すべてが「加勢の地」でないと計算が合わない。そして、そこから開発された「加勢の田」が約9町歩とすると、計算上すっきりする。

では、その30町歩はどこかと地図を眺めまわすと、百村川が加治屋の区域になるポイントがある。そこから下流は加勢の開拓の区域であったのだろう。加勢の田と見える所も加勢の区域だろう。那須疏水流域は加治屋の区域だろう。と見ていくと、ちょうど30町歩が見えてくる。以下の地図で示す。

この様に、加勢の開拓から買い取った加勢の地は、百村川(バラザワ)流域の加勢の田からバラザワ東の地であり、そこを除いた200町歩が原初の加治屋200町歩であろう。ちなみに地形図上ではバラザワ東の地が加治屋の区域と示されたことが一度もないことが不可解だが、百村川の水を明治26年の第四堤防の水源に利用していることから、百村川(バラザワ)の水利権もその時に獲得したのだろう。

●加治屋開墾、準備開始

明治15年、加治屋開墾は準備を始める。那須疏水が加治屋を流れるのが明治19年なので、この時はまだ、先に述べた江戸時代の様子と変わらず、川もなく湧き水もないから稲作はできず、井戸を掘っても水は出ず、強風で耕地が吹き飛ばされ畑も作れないおよそ生きにくい土地である。ただ一点、那須開墾社の一区から四区と比べれば石や砂利があまりなく肥沃であっただけマシであった。このような過酷な状況の中で開墾準備が始まる。西郷さんと大山さんは東京に帰ってしまったので那須開墾社主導のもと、開墾に必要な設備の設置から始まる。

明治15年4月30日、高林村の岡田鎌次郎に請け負わせ、周囲小堤を回し家屋裏手に防風目的の高さ3mの土堤を築き5月26日に終える。続き事務所の建設。原町の三好定平氏より杉立木約200本、その他用材を親園から買い入れ、大田原宿の大工金子長吉を棟梁に11月初めに竣工。建築費850円。築堤費215円。参考までにこの頃の蕎麦一杯の値段は1銭で現在のおよそ6万分の1であることから現在の価値に換算すると、建築費5100万円、築堤費1290万円といったところであろうか。続き納屋、畜舎、農夫宿舎など建設。農場周囲に防風林として一番外側に松、その内側に杉檜などを植え家屋三方の築堤内側には樫を植える。さらに茶を植える。原野の一部に櫟(クヌギ)苗を植え植林の手始めにした。苗木は親園の伴与太郎氏と大田原宿の大橋直次郎氏(後の大田原町長)から買い入れる。

●加治屋開墾に一番乗りした星太三郎

加治屋区域に最初に住み始めたのは、星太三郎という人だったという。郷土史によると、「明治初期から明治14年までの間に、大興電機寮北端あたりに居住していた」「那須開墾社の明治18年8月の調査によると、農場職員・囚人以外に加治屋区内に住むものは星太三郎しかいなかった(要約)」とある。また、明治30年の加治屋八幡神社の創建の際の住民一覧には星太三郎の名前はないこと。大興電機について、一般的に原町の大興電機を思い浮かべるが、大イヅンボの解説で「二つ室境大興電機寮」と記載があることから、二つ室にもあったらしく、郷土誌の言う大興電機はどちらかというと二つ室の方である印象を受ける。

これらを総合的にまとめると、星太三郎は、明治の初めから明治14年まで加治屋寄りの二つ室に住んでいて、まだ加治屋開墾の準備も終わらない明治15年に、管理人の興野寿や加治屋農場職員が住み込むよりも早く住み着き、明治18年から明治29年の間に加治屋を去っているのだろう。居住していた場所は不明。

●加治屋開墾と黒羽藩士の興野さん

施設ができると加治屋開墾は興野寿を住まわせ管理者とした。まず興野家と加治屋開墾の関係を説明したい。興野隆政という黒羽藩士がいた。彼は藩主増勤(ますとし)に選ばれ江戸の江川塾に入塾する。増勤が黒羽藩の藩主になったのは明治元年で、知藩事を罷免されるのが明治4年であるから、その頃の話である。その塾には西郷従道と大山巌もいて親しかったらしい。隆政は性分に合わないと中途で黒羽に帰ってきてしまったと郷土誌にあるが、おそらく入塾直後に黒羽藩が消滅してしまったため江戸にいる根拠がなくなったためと思う。西郷従道と大山巌が加治屋開墾を志した明治14年ころ、隆政は黒羽町前田にて悠々と書画骨董をたしなんでいた。そんな折、西郷従道と大山厳は狩猟を興じるために那須野ヶ原にやってきて興野宅に泊まり、農場の管理者を依頼され隆政は快諾する。明治15年弟の寿を伴い加治屋開墾の手伝いに赴く。家屋が出来上がると弟の寿に後を任せ、自身は、鉄砲火薬商の免許を得て商人となる。大田原の奈良スポーツ付近に店を構えたらしいが詳細は不明。自分で快諾しておきながら弟に任せてしまうとは、やはり変わった人だったのだろうか。

もう少し興野氏の補足をしたいのだが、この興野氏という家系は歴史が古い。1472年、烏山城主那須資持が次男の持隆に七合村の興野の地を分地し、以降、資持は興野を名乗ることに始まる。天正18年(1590年)、興野尾張守隆徳とその息子隆寿は、秀吉に改易された烏山城主那須資料晴に付き従い、興野の地を離れ佐良土に移り住む。寛永元年(1624年)興野隆利は黒羽城主大関土佐守高増に召し抱えられ黒羽に移る。寛政2年(1970年)に生まれた興野市左衛門隆雄は、幕臣杉浦熊蔵の次男にして、黒羽藩士興野市右衛門隆仲の養子となり興野の家を継ぐ。その隆仲、父の隆重の意思を継ぎよく山林を治め経済に長けていた。養子、隆雄も好み樹木を栽培し、その植林の数40年間で18万本。八溝山や那須の林業に大きく貢献する。隆雄は、従来自然苗や押木からの植樹であった方法から、種子を選び苗床を作り苗木を育て植樹するという方法を開発した。これを「太山の佐知」として本にする。隆雄、文久2年(1862年)73歳で他界するが、死して後の明治15年に大日本山林共進会、大正8年大日本山林会総裁守正壬、さらに下野山林会より表彰を受けている。

●興野寿の住まいはどこだろう。

郷土誌では、興野寿が加治屋開墾本即時、どこに居を構えたか明確に示していない。現在から探ると、興野さんちの所有地は那須疏水の最上流区域である。統治者が水利の最もいい所に居を構えることは当然であろう。明治40年測量の地図を見ると、現在は一区町の区域になっているパチンコニラクのある所に丁度それに値する家が見つかる。郷土誌の昭和12年自作農創設時の加治屋の地図では、興野家は現在の相馬運輸あたりに書かれていておそらく間違いなのだろうが、加治屋の「外」に強調されて示されていることに注目したい。これらを総合すると、やはり明治40年測量地図に見える一区境の家が興野寿の家ではないだろうか(36°51'11.6"N 139°59'33.0"E)。しかし一方で、昭和4年測量の地図からはその家は消えている。また現在の興野さんの家は明治40年測量の地図にも昭和27年測量の地図にも見えない。郷土誌では興野さんは興野寿の「分家」と記載されている。興野さんの証言によるとずっと今の場所だったというのだが、例えば西那須野駅周辺など便利な土地に住み加治屋を管理していた時期があったのではないだろうか。

●明治16年、加治屋開墾事業開始

明治16年初頭に開墾が開始される。まず、馬耕に熟練していた那須開墾社の安藤治輔の手を借り「プラオ」による開墾をする。おそらくこれが俗にいう「安藤の畑」であろう。安藤さんのお墓は二つ室の常盤ヶ丘に矢板武や印南丈作とともにあるので、関心のある方は是非訪れたらいいと思う。加治屋開墾は次に、農夫数人を雇う。さらに那須開墾社に習い宇都宮監獄の囚人を借りて開墾させた。これは明治維新以降各地で行われたもので、一日に結構な坪数を開拓するノルマを負わされ、雨の日は屋内での仕事をさせられ、病気の時以外に休日はもらえないという過酷なもので、屋外で作業する際は赤い半纏を着せられ、さらに雛形の異様な鬢髪にさせられ、腰に鎖を巻いた風貌が一般的のようである。明治27年に囚人を使役することが禁止される。そういう労働力を使い原野数町歩開墾し、飼料作物、サトウキビを栽培して砂糖の製造を試み、また農商務省から乳牛35頭を借り、その他、綿羊、豚、鶏の飼育を試みるもいずれも期待した成果は得られず明治20年までにこれらから撤退する。ただ当初より始めた植林事業は堅調だったので以降も継続する。

●明治17年、永田区に第二農場創設

明治17年、加治屋開墾第二農場を創設。現在の下永田地内に事務所を置き、管理者を黒田恒七郎とし、またその第二農場区域を永田区と名付けた。第一農場を加治屋区と呼び分け、興野寿をそのまま管理者に置く。この黒田恒七郎という人は、矢板武の親戚で、大宮村の人だった。加治屋区同様、当初は農耕牧畜に力を入れたが、後に植林を主な事業にする。小作人は明治28年から増えだしたという。ちなみに加治屋開墾加治屋区の地名の由来は、西郷従道と大山巌の出身地鹿児島の加治屋町に由来し、さらに基を正すと鹿児島加治屋町は刀鍛冶が多かったことに由来し古くは鍛冶屋町と書かれたらしい。加治屋開墾永田区は東京の永田町に由来し当時大山巌はそこに住んでいた。死去するときには既に西那須野町下永田に住居を移している。

●明治19年、待望の那須疏水が加治屋を流れる

明治18年6月、那須開墾社と加治屋開墾の区域が合わさり那須野村が発足。同年9月、那須疏水の本幹完成し、翌年明治19年の夏ごろまでに那須疎水の全ての分水が完成し、ついに加治屋に水が通る。同年10月1日、永田区地内に東北本線の那須停車場が開設し駅周辺が栄える。永田区では入植者が集まりだしたのは明治28年ごろからであったらしいので、駅の開設は入植意欲に影響していない。

●明治19年、小作人を募集し始める

「農場開業後3年か4年目、加治屋開墾は植林事業を軸に、入植者を広く募集して小作経営にする方針に切り替えた(p37)。」のは明治19年か明治20年のこと。ちなみに募集する以前から星太三郎は加治屋にいたことを忘れないでほしい。耕地の開拓は小作人の自力に任せたというから、囚人の労働力は借りられなかったようだ。小作契約の主な内容は、鍬下年限を5年とし6年目以降から若干の小作料を徴収した。小作料について郷土誌には「鉄砲町、親園在住の小作人を通耕小作と呼び1反歩1 50歩、加治屋在住の者1反歩1 を2期に分けて納入させた」とあり、おそらく空欄に何か文字を入れたかったのだろう。通耕小作1反歩で1斗5升、加治屋区民1反1斗を2期に分け納入と書きたかったのだろうか。これだと小作料率は10%程度という格安で、従道さんが慕われた理由に合致する。また、耕地を自由に拡大することや、加治屋外に自作地を持つことも許された。入植者を募集したものの、初めのうち集まらなかったというが、明治30年の八幡神社建立までには、その創設メンバーと星太三郎で少なくとも16軒が入植している。

●明治22年、那須野村が西那須野村に改称

明治21年に市制及び町村制が公布され近隣の村落が合併を始める。明治22年、東那須野村が設立したため、那須野村は西那須野村と改称する。またその年、那須開墾社幹事の斎藤半次郎が初代村長となる。黒田恒七郎は助役の扱いになり西那須野を去り、助役の後任に吉田茂八がなる。西那須野村加治屋区となる。

●加勢熊次郎から土地を買い取る(明治16年〜明治25年)

加勢の地の購入時期を考えたい。若月さんの研究[2]では、「言い伝えによると西郷農場が六本松の加勢熊次郎から土地を購入したのは明治中頃」だという。もう少し年代を絞り込みたい。郷土誌において、「加勢の地を購入後、低地から水が湧き水田にした(要約・P111)」といい、また「加治屋における原初の田は中組集落北側と旭組集落西側と加勢の田の三か所」だったという。加治屋東組において湧き水による堤防と称する灌漑事業が開始されるのが明治26年であるが、それに伴う水田開発はその原初の田に含まれていない。また、第四堤防は百村川(バラザワ)からも取水しているので、それ以前に水利権を取得していないといけない。ということは、東組の堤防の少なくとも1年前には加勢の田の開発があって、さらにその前に加勢の地の購入がないと話が合わない。購入時期は、明治16年の開業直後から明治25年の間だろう。ちなみに、若月さんの研究で「西郷農場が熊次郎から買った」とあるが、このころはまだ加治屋開墾である。

●明治25年の加治屋区小作人の暮らし

郷土誌72ページに「先代入植者」の「入植当初」の生活が書いてある。「入植当初、小作人が主に栽培していたものは、粟・稗・大豆・馬鈴薯・菜種・樹油・蕎麦であり、主食は蕎麦、粟、稗で、米は夢の様な作物で、親園や佐久山からもくず米を手に入れて主食に足して食べていた。飲み水は、鷹巣カヤバ方面(郷土誌には三斗内カヤバ方面とあるが正確には鷹巣茅場。)と原町の栗山方面に汲みに行った」という。現在でいうと栗山は美原のにちにちそう辺りで、鷹巣茅場は現在実取の西側のニコン辺りである。

ところで、「入植当初」とはいつの事か考えてみる。状況が詳しく書かれていることから、加治屋に残った入植者であろう。その中で最も古い家は明治25年の入植である。また、明治26年頃にはまとまった湧き水が出始め隣町までの水汲みも不要になっているはずである。とすると、これは明治25年から数年のことであろう。

明治19年には那須疏水が加治屋を流れているはずなのに、小作人は那須疏水を使わせてもらえなかったようだ。これに関連して、128ページには「第四分水は昭和25年頃まで流域住民の貴重な飲料水であった」と書かれているが、これは提橋昇先生という学者さんの意見で、加治屋区の事であるなら自作農創設以降のことか、一区、二区、三区、四区のことを言っていることになる。那須開墾社の印南丈作、矢板武は明治14年の飲用水路を通したことからもみえるように小作人に疏水を使わせてくれたのだろうが、加治屋区においては、大山と西郷の独占であったようだ。

●明治25年頃、加治屋区において三か所の原初の水田。

明治25年頃、那須疏水が流れ始めて7年目、その恩恵で地下水が生じ、加治屋地内の三カ所の窪地に、自然と水が湧き始めたのはこの頃だろう。と言っても先に挙げた「明治25年頃の加治屋小作人の暮らし」で触れたように、このころはまだ隣町まで飲み水を汲みに行っているので、どこでも井戸を掘れば水が出るほどではなかったのだろう。この三か所の窪地に溜まった湧き水を利用して加治屋地内に3つの水田が開発された。中組集落の北側(36°51'07.0"N 140°00'06.7"E)と旭組集落の西側(36°50'47.4"N 140°00'25.9"E)と旭組集落東側の加勢の田(36°50'46.4"N 140°00'50.7"E)の三か所だったという。第四分水の流れが止まると一週間ほどで加治屋地内の地下水の低下が目についたというから、地下水の発生には疏水本幹よりも第四分水の影響が大きいようだ。

●明治26年、那須開墾社解散

那須塩原市のHPの「那須開墾社関係文書」のページによると、「明治21年(1888)には移住人分与地・植林地・寺社・公共用地を除いた約1,300町歩(約1,289ヘクタール)が株主に分配され、同26年(1893)結社は解散。」という。

●明治26年、東組地区、堤防と呼ぶ灌漑で3町歩開田か?

「明治後期の頃、加治屋のいたるところに水が湧き、3メートルほど掘ると水が汲めるようになった(p113)」とあるのはこのころだろう。明治26年から加治屋開墾は、東組区域に通称「堤防」と呼ばれた湧き水を溜める土堤を作り始める。「明治後期」には当てはまらないが、水が湧き始めないことにはこの事業は始まらないので、一定量の地下水が利用できるようになったのはこの頃からだろう。土堤の大きさは幅3m高さ3m。四カ所に「堤防」を設けたが、明治40―42年測量の地形図[7]をみると、第四堤防だけ溜池の形で見える。また、同じ地図上で加勢ノ田9町歩の枠に収まらない水田が3町歩程度桜組東側にあるが、この灌漑による開田と考えられる。ちなみに、昭和4年測量の地形図[7]においてもこの3町歩の面積は変わっていない。

●明治27年、囚人を開墾に利用する強制労働が禁止される。

囚人を利用した開墾はこれで終わる。農場としては、これを境に人集めに躍起になっているはず。

●明治28年頃(推定)、小丸山の農場買取はこの頃か?

三斗内の大久保貞蔵さん、溝口定次郎、木下安衛門所有が開拓し所有していた土地の合計5.5町歩を、加治屋開墾が買い取ったのはこの頃だろうか。個人で開拓した土地を買い取るということは大きな理由があったはず。明治26年よりまとまった湧き水が東組地区に発生しだしたと考えられるので、その前後、小丸山の地でも湧き水が生じたはずである。その湧き水を加治屋区として利用したいと考え小丸山敷地を購入したのだと思う。溝口さんは明治25年の入植であるから、購入時期はそれ以降であることは間違いない。入植し、小作地を与えられて、さらに自作地を二つ室に求め開発の結果を残し、またその開発は水が湧き出る以前であることを想像すると、無理のない推定は明治28年頃ではないだろうか。

●明治30年、永田区を永田区と下永田区に分ける

明治30年、西那須野駅前が商業地として発展し、周辺農業地域と事情が異なったため、旧永田区のうち西那須野駅周辺をそのまま永田区とし、それ以外を下永田区とした。このころ駅付近の戸数は150戸。

●明治30年、八幡神社建立と当時の住民

口伝によると、明治30年に、相良宇平を中心に西那須野村加治屋区の「地ぶくれ丘」に祠を建て、浅野八幡宮より分霊を迎え、加治屋八幡神社を建立したという。

この時の住民は、相良伊平、阿久津儀平、吉川惣吉、薄井喜代太、川島宇之松、橋本幸三郎、溝口定次郎、大島与左衛門、松本喜三郎、小林延吉、木下安衛門、山崎久次郎、吉井米次郎、石橋巳之助、興野欣哉の15世帯であったという。(名前の漢字は郷土誌上統一されていない部分があるので、最も妥当な漢字を選ぶ)

郷土誌を総合的にかんがみると、これら15人の住所地は以下に示す地図のようになる。「五本木の家」は加治屋開墾発足以前からあると考えられる。

溝口定次郎と石橋巳之助と木下安衛門の家は現在も続く家柄である。川島卯之松という人は元黒羽藩の下士で興野を頼って来たようで、当時囚人を労働力として使っていたため看守の手が不足気味であり、その助手として雇用されるが、後に加治屋を離れ興野隆政の火薬商の後を継いでいる。興野欣哉は、現在加治屋に続く興野さんとは系統が違うようだ。興野寿は加治屋地内の那須疏水最上流区域に土地を与えられたようなので、一区との境に見える家が興野寿の家なのかもしれない。その他の人の素性と行方も分からない。

●明治30年からの入植者の増加

上の図に示す通り、明治30年から続々と入植者が集まりだしている。富山県、足尾町、茨城県猿島からの移住者が大半を占め、鳥取県岩美、新潟県、小川町、五本木、親園、原町、大田原からの移住者がまばらに存在する。近隣からの入植が少ないことが興味深い。あえて遠方からの入植者を迎えるということは元々の知り合いなのだろうか。それとも足尾同様、富山と猿島という地に当時何かあったのか。

加治屋に移住した彼らの全てが土地を借り小作人になったわけではなく、農場の職員として生計を立てたものも多かったのかもしれない。明治35年の農家だという戸数(p40)と入植戸数が大きく合わない。明治27年に開墾の労働力としての囚人の使用が禁止されるので、農場としても労働力を欲していただろう。「明治末期、農場の手伝いによる日当は17銭」の記述はそこからつながるのだろう。ちなみに明治末期の17銭の重みを考える。 [3]から当時白米1升が16銭だったので、一日の稼ぎはおよそ白米一升分といったところだろう。これは大人2人子供2人がギリギリ生きていける量であろう。蕎麦一杯換算で15000倍とすると、現在の価値観にすると日当17銭は現在の2550円の感覚であろう。

●明治30年、稲荷神社を建てる

明治30年に、斎藤捨次郎さんは入植と同時に敷地内に稲荷神社を建てる。p104では明治29年の建立となっているが、p26では明治30年に加治屋に移入とあるのでそれを優先する。斎藤さんは足尾の人で養蚕業を営んでいたが、鉱毒のため養蚕を断念し下駄職人に転職していた。明治28年、材料を求めて八溝方面に出向く途中、興野寿さん宅に宿泊する。当時は知らない人を家に泊めることは普通だったのだろうか。それともすでに顔見知りだったのだろうか興味深い。そこで、寿さんに「百姓をしてみないか。できる限り世話を惜しまない。」と話があったことから加治屋への移住を決める。後に神山さんや星野さんの移住を促した。

●明治32年、農場事務所北側に6町歩の開田

明治32年、「農場周辺、旧日光街道沿いに約6町歩の水田を開発した(p37)」とあり、明治40-42年測図の地形図にも旧日光北街道と第一農場事務所の間に、約6町歩の水田が見える。東に公民館、西にサクラオート脇の水路の区画。

これに対し、「明治33年から明治40年にかけて、加治屋地内の水田面積は約5町歩(p72)」とある個所について、事務所北側の水田6町歩の開田の記述は明治の地形図で確認できることから信用できることと、また加勢の田を含む原初の田もこの時点で存在していることから5町歩には到底収まらず、この記述は誤りだろう。

●明治35年、加治屋地内の農家約15戸

明治35年、加治屋区の「農家」は14戸か15戸という(p40)。この「農家」が示すところが単に農村にある家を示しているのか、純粋に農業を営む家のことなのか考える。明治40-42年地形図における加治屋内の家屋は34戸、昭和4年地形図では38戸認められるのに対し、郷土誌において大正9年の農家戸数は22戸(p40)というので、これは農業を営む戸数のようだ。

では、明治35年時点の全戸数を考える。八幡神社創設の15戸と、「先代と二代、三代とのつながり(p26)」から12戸入ってきているので27戸である。約11戸も農家ではなかったことになる。農場の職員として雇われたのだろうか。

●明治35年、加治屋開墾が大山農場と西郷農場に分割

明治35年、西郷さんは大山邸に赴き、一家団欒に混ざり加治屋開墾の分割について話し合う。まず領域を二つのセットに分けるために、西那須野駅、第一農場区域、第二農場区域を基準に考えているようだ。まず一つ目のセットに「第一農場加治屋区200町歩」と「第二農場区域のうち西那須野駅の西側50町歩」の合計250町歩と、二つ目のセットに「西那須野駅より東側の第二農場区域250町歩」に分けている。領地の選択はトランプによる抽選で決めることにし、談笑の間に決定したという。これにより、「第二農場のうち西那須野駅西側と加治屋区」は西郷農場で「第二農場のうち東側」は大山農場に分割された。

●明治35年、西郷従道死去

西郷従道はこのあたりから胃の具合が相当に悪かったらしく、分割直後に大山家にならって建設したという永田区の別邸で静養していた。塩原街道に面した3300坪に植樹築庭し清楚な別邸を作ったという。現在の永田公民館あたりが植樹された庭で、大田原信用金庫西那須野支店の西隣あたりに屋敷があったと推定される[7]。しかしその年の6月には病状悪化のため目黒の本邸に引き取られる。その帰路において汽車の車窓より遠のいていく那須野が原を眺めつつ「わしはもう再び那須野の地を踏むことはできまい」とハラハラ涙を流しつつ付き添いの者に言ったという。明治35年7月18日、西郷従道、胃がんのため死去。ここで彼の経歴を示す。維新の後、陸軍中将に任ぜられる。明治5年、台湾征討の司令官になる。大隈重信が出兵の中止を進言するものに対し「大隈八太郎は馬鹿でござる」と言い捨て、席を蹴って戦地に向かったという話がある。明治14年のころは、農商務卿だった。彼は狩猟を好んでいた。明治18年にはあの有名な伊藤博文の初代内閣において初代海軍大臣に就任している。明治28年日清戦争、大隈巌陸軍大臣が第二軍司令として出征した時には、当時海軍大臣であって陸軍大臣も兼務している。明治33年に任命された内務大臣が最後となる。非常に立派な人であったのに、地元ではあまり知られていないのが残念である。

●明治36年、西郷神社建立

従道が死去して丁度1年目の明治36年7月18日に、興野寿を発起人とし加治屋区小作人一同と外有志者により総工費264円をかけ西郷元帥神霊分社(通称西郷神社)が建立される。と郷土誌にあり一見加治屋区民が中心となって行ったことと受け取りやすいが、p98とp99の出資者一覧をみると、ほとんど知らない名前ばかりで102人もいるので、加治屋区が中心と言うわけではなさそうである。相当な範囲で西郷従道は慕われていたことが窺える。ここで当時の総工費を現在の価値に換算してみたい。当時と現在で、蕎麦の代金と大工さんの手間賃と日雇いの給料が軒並み約2万倍になっていることを参考に総工費を現在の価値に換算してみると528万円ということになる。加治屋郷土史においても当時の総工費を米1俵の値段と比較してその高額さを表そうとしているので、驚くほど高額であることに違いはないと思う。ちなみに出資額が最も高かったのはお馴染み興野寿と永山さんという人で25円。これは現在の感覚で50万円。最も少ない人で25銭で現在の感覚で5000円。加治屋の人は大体1円から5円で出資していて、現在の1万円から5万円であろう。私自身において、地元の有名人の記念碑を建てる計画が持ち上がったことを想像したとき、寄付を募られてもさして思い入れがなければ1万円も出したくない。相当な思い入れがあったのだと理解できる。郷土誌から読み取れるそういった要素は、まず小作の条件として耕地を自由に拡大できたことと加治屋外に自作地を持たせてもらえたことが特に大きく感じる。また小作料は昭和初期の情報なので幾分違うかもしれないが平均反収を16斗と見積もった上で中田4.5斗の小作料とあり、小作料率は28.1%と格安であることもその要因のひとつと思われる。一般的に50%を超えるのが当たりまえで80%も搾取するひどい地主もいたようだから、小作人としては相当にありがたかったのだと思う。それに西郷従道はよく小作人をねぎらったのかもしれない。頻度は分からないが、ヨーロッパ製のナウい狩猟着(西郷神社三種の神器の一つ)を身にまとい加治屋区民の前に顔を出していることが窺えるし、星野五郎作が「小作をしていれば必ず幾年後かに自作にしてやる」と西郷従道本人から聞いたという。

以降の西郷神社の奉納物については以下の通り。
・明治38年8月30日。西郷清子より常夜燈奉納
・大正元年10月、加治屋有志より常夜燈(石工蜂須賀末吉)を奉納。
・大正元年8月18日、加治屋有志より鳥居(石工石崎庄之助)を奉納。
・大正9年10月18日、西那須野村より献木(こうやまき)2本奉納。
大正9年10月18日、西郷従志(小松従志)より御手洗奉納。小松従志とは従道の三男。若くして畜産に興味を持ち西那須野別荘に移り住み養鶏を始める。成功せず欧米に留学。3年ほどで帰国し奥羽種馬牧場に入る。貸馬制度を作り、仔馬2頭を返却すれば親馬1頭を無償でやるというものだった。熊本の熊毛嶋牧場に入る。宮内省、狩猟官になる。イギリスへ行き猟犬「ぽ」「せ」を持ち帰り品種改良の研究をする。小松家の養子となる。
・大正11年8月18日、加治屋有志より唐獅子(石工渡辺末吉)を奉納。
・昭和48年8月、西郷従吾より参道石段奉納。
・昭和47年3月8、東京都板橋郷友会代表 西郷従竜(従吾の弟)よりソメイヨシノ奉納。
・昭和32年4月、加治屋自治会より旗柱二基コンクリートに建て替え。
昭和43年4月15日、大田原老人クラブ加治屋長寿会より明治100年汽船植樹記念碑(石工伊藤正寿)とソメイヨシノ奉納。

●西郷神社の神殿は小松布孝の芸術作品

西郷神社の神殿は多分外にない形状であろう。華々しく彫刻を施された豪華な石造りの神殿なのである。作者は福島の石工小松布孝(ノブタカ)とその息子布作(ノブサク)の共作であるが、この布孝は狛犬の石工を芸術の域まで高めたということで、その弟子の小松とともにWikipediaに載るくらい有名らしい。残念ながら実子の布作は目が出なかったようである。小松布孝は明治36年にこの西郷神社神殿を製作する直前に、西那須野の雲照寺の観音像を彫っている。雲照寺は加治屋開墾の世話をしてくれた那須開墾社の第二農場事務所にほど近いところにあって、西那須野永田の西郷別邸からも4キロ程しか離れていない。従道は布孝が製作風景を見にいったかもしれない。それにしても、従道死去から神殿の奉納までたった1年しかなかったわけで、あれだけの彫刻がよく間に合ったと思う。同年9月には白河下野出島の鹿島神社の狛犬の奉納をしている。

 

●加治屋地内のしめ縄の考察

しめ縄の形状は加治屋の八幡神社と同形で、先を太らせた2本のしめ縄を着物の衿を合わせるように左を前に出して人の腰の高さで交差させて結んでいる。加治屋八幡神社は明治30年に浅野八幡神社から分霊してもらっている経緯があり、やはり浅野八幡神社のしめ縄も全く同じ形状をしている。

では浅野八幡の由来は何なのか気になるが、大田原市史の前編によると「天保12年の開拓より15年が経ち、住民により鎮守の社の創建の意向が持ち上がり、諸々の神様の名前を記したものを三歳未満の幼児に選ばせ八幡大神が選ばれ安政2年3月15日に創建する(要約)」とあり、神様をくじ引きで決めたことしか書かれていない。それでも分霊元があるはずと思い、大田原近辺、加勢さんの出身地の米沢、出資者の浅野さんや山口さんの地元大阪堂島と阿波の八幡神社を探したが、類似するしめ縄を持つ八幡神社は見つからない。というか、二つのしめ縄を衿を合わせるように結ぶものは那須野ヶ原にしか見られないのだがそれは別の機会にして、では浅野八幡はどこを参考にしているのかを探すと、隣接した地区の荻野目の諏訪神社のものが同形、やや離れて佐久山地区の神社も同形で、それ以外の近隣のしめ縄は明らかに違う形状をしている。このあたりを参考にしてたのだと思う。

ちなみに、今知る限りだと黒羽まで視野を広げると黒羽田町の八雲神社と八潮の鹿島神社と大豆田の湯泉神社のしめ縄が、荻野目諏訪神社のそれより先細りで胸元の高さで交差していて若干の差異はあるものの類似していることが興味深い。また、加治屋開墾を手伝ってくれた那須開墾社区域の神社のしめ縄は上石上の湯泉神社を真似ているように思え、2本のしめ縄を交差させず人の胸元高さで結び下に垂らす形式である。

●西郷神社の三種の神器

西郷神社のご神体は、西郷従道が狩りをするとき愛用していた「狩猟用上着一着」「防寒用長靴下一足」「白鞘の短刀一振」の加治屋版3種の神器がご神体とされ、この当時は西郷農場事務所に保管されていたらしいが、平成現在は自治会長の保管になっている。

●明治40年、加治屋特産の炭俵

明治40年の時、炭俵1枚の売値は5厘であったようだ。加治屋の家は副業として子供から年寄りまで寸暇を惜しみ総動員して炭俵を編んだという。1日に編める枚数は20〜30枚であったらしい。仮に1日に25枚を休日なく編み続けると1人あたりの年収は45円程度になる。西郷神社神殿の工費の時同様に現在の価値に換算すると90万円!にもなる。これを子供から年寄りまで仮に世帯6人を動員して編んだと仮定したらなんと世帯年収は540万円!ではないか。もっとも、入会権の取得に費用がかかっているのですべてが利益ではないが、郷土誌には、炭俵の副業のおかげで加治屋住民は「巨額」の収入を得、生活は豊かだったとある。入会権取得の費用は左程ではなく利益は「巨額」だったのだろう。茅場としては、主に鷹巣茅場(現ニコンの場所・郷土誌には親園三動地茅場とある)、土屋茅場、平沢茅場、原町ハルサンなど豊富にあったらしい。茅場地主が自分の取り分を競売に出し、加治屋の人はそういう入会権を高値で競り落とし、10人前後のグループで茅刈をしたらしい。競売の場所としては鷹巣の淡島神社しかかかれていないが、入札前に酒を飲み弾みをつけたらしい。屋敷の隅に20〜50ダンを積み備えた。ちなみに1ダンの単位は馬1頭が運べる炭俵の枚数160枚分であろう。大正の初め、炭俵を買い取ってくれる商いは2軒あったようだ。黒磯駅前の沢栗藤吉商店と西那須野の金子商店で、高く買ってくれる方を選んで売りに行ったらしいが、一日がかりの仕事になり大変だったらしい。馬や荷車に炭俵を積んで朝早く出発する。馬には先に述べたように160枚積んである。沢栗藤吉商店に売りに行ったとき、その帰りは馬に乗って帰って来たらしいが、大久保から下町の大田原の町中は馬から降りないといけなかったらしい。昭和42年(1968年)ごろから燃料が炭から灯油に移行するそのころまで、いい収入源だったのだろう。

●明治42年、加治屋地内の水田は約28町歩

明治40年測量塩原の方[7]には加治屋地内の水田はない。明治42年測量大田原の地形図[7]を見ると約28町歩ある。

西郷農場はこの頃、那須疏水第四分水から引いた五号水路に24個分の水利権を持っていて、飲用と水田用に利用している。本稿「加治屋に関連する地名と水源」でも説明したが、24個の水量とは毎秒672Lの水量のことで、この水量から考えると農場は疏水の大部分の水を五号水路に流して疏水を独占していたことが窺える。

さらにこのころ、水稲の愛国を主体に稲作をし、平均反収は1.2石であったという。この頃全国的にも近隣開墾地共としても平均反収1.7石くらい取れているので、ちょっとガッカリな生産量である。農業用水は足りていなかったらしく、胴付きという手法で田んぼの床締をして水持ちをよくする工夫をしている。

また、この頃、明治40と明治42年に初めて正確に測量される。その地形図は本稿冒頭に掲載している。

●明治44年、狐山の松を塩原御用邸へ献納する。

狩野村の植木職人等が三人がかりで狐山の松を塩原御用邸まで運ぶ。加治屋の誇りである。

●明治45年、八幡神社にお堂を作る

星野辰吉と星野五郎作が西郷農場から檜を無償にて譲り受け、藁葺屋根で四間四方の板の間造りの八幡神社のお堂を作り、元の社をお堂内に奉納した。ご神体は、原町の渡辺利平が彫ったもので木造で色付けをした八幡太郎義家である(左下写真)。ちなみにこのご神体の作者に関して、大田原市那須与一伝承館発行の図録「渡辺利八〜大田原藩を描く〜」では、原町の渡辺利八の作だとなっているが、利八はお堂のできる3年前の明治42年に死去している。また利八の作風は木像にどれも色を付けておらず、彫り方も朴訥としていて、八幡神社のご神体の木像とは雰囲気が違う(右下写真)。総合的に考えて加治屋郷土史の記述が正しく利平さんの作でいいと思う。その後お堂は、大正14年に大工渡辺清吉により拝殿建築。昭和48年に屋根改修を行っている。

<大正時代>

●大正時代の農業

大正に入り生稲の「ガイセン」という品種が普及し始める。しかし取れて1反6斗であったらしい。麦も始めたようだが、空っ風に耕土が吹き飛ばされうまくいかなかったらしい。

●大正時代初期、宮の田を4町歩に拡張

大正初期の開発だという。西郷神社運営資金を作る目的で加治屋住民共同で開墾した水田を宮の田と呼んだ。農場事務所敷地内の湧き水を利用した。近くに縦松と呼ばれる細長い松林があった。明治42年測量の地図にすでに7反ほどあるが、昭和4年測量の地図では「加治屋から親園に抜ける道」と「縦松」の間を北に広がり4町歩ほどになっている。自作農創設以降は中野さんの所有。

<昭和時代>

●昭和初期の加治屋について

昭和初頭、80戸。昭和4年測量の地図で初めて「加治屋」となっている。このころまでに西那須野村加治屋となっているのであろう。

昭和5年における加治屋の概況は、田が44町8反1畝29歩、畑が95町9反6畝13歩、山林が101町5畝22歩、市街宅地9107坪、農家宅地8828坪であった。合計すると248町2反7畝45歩になる。この概況には、加治屋開墾が設立以降に買い足した、バラサワ東の地から加勢の田8.8町歩(約8.73ヘクタール)の加勢の地と小丸山5.5町歩が含まれる。

昭和初期、星野辰吉さん敷地内に三峰神社を建立する。

昭和7年、西那須野村から西那須野町となる。西那須野町加治屋。このころ、加治屋区の特産物は炭俵と松であったようであるが、木炭の需要は昭和42年を境に灯油に置き換わる。

●バラザワ東の地12.7町歩の区域の推定

加治屋の正確な面積が見えたので、ここでバラザワ東の地の面積を割り出したい。本稿「明治14年、加治屋区原初の200町歩」で見た通りバラザワ東の地と小丸山を除いた加治屋の面積は約230町歩で、地形図上昭和27年測量のものも同じ境界線を持っていたので昭和5年においても約230町歩である。本稿「昭和初期の加治屋について」と合わせてバラザワ東の地の面積を求めると12.7町歩であることが分かった。そういう先入観で現代の地図を眺めると、以下に挙げる地図のように、カントリーエレベーターと百村川を基準に色々線を引いてみると、古っぽい道を境界に12.7町歩が偶然見える。

●昭和5年、西郷農場の事業内容

この時の西郷農場の直営事業の様子は、植林山林に松杉檜椚(クヌギ)などを栽植育成し、檜杉と苗木は自前で育て、小作人から小作料を徴収している。小作料は、p45では、平均反収を4俵(16斗)として3.5斗〜6斗、畑は2円50銭とあり、p41には玄米で上田6斗5升、中田4斗5升、下田2斗5升とある。下田における数字に差異があるが、おおむね玄米で1反歩あたり4俵とれるとして4.5斗前後の小作料ということだろう。農林水産省が1981年に発行した冷害と農業技術という書籍では昭和5年の1反の全国平均収穫高は318s=5.3俵とあるので、4俵の見積もりは随分少ない設定なのかもしれない。小作料率は約28%。畑の1反2円50銭を考えると、当時1俵10円程度らしいので2.5円は米1斗分程度だろうか。

●西郷農場の解散の一部始終(昭和12年12月)

昭和10年、加治屋において自作農歎願の動きが起きる。この時までの世間の様子は、明治26年に那須開墾社は早々と入植者に土地を払い下げを行っているし、大正15年5月には政府として自作農創設維持補助規則を発布していて、大正末期より小作条件の改善要望闘争が各地で増え始めていた状況である。この昭和10年をピークに18年頃まで多かったようだ。昭和5年7月千本松で繭価暴落、昭和7年1月の阿久津事件などにより機運高まり、すでにこの時点において、那須地区の小作地の3分の1、面積にして1000町歩余りは自作農化していたらしい。時の区長星野五郎作45歳のリーダーシップによる提案に、満場一致の賛成を得る。五郎作は先の地主従道のことば「小作をしておれば必ず幾年後にか自作にしてやる」というのをずっと覚えていて、それが区民のこころを動かした大きな要因であった。加治屋において会合50回以上、県庁に出向くこと24回あまり、警察へ出頭を命じられ事情聴取されること5回。集落の一部の仲間からは「若造が何をできるか」と言われながらも発奮し準備を進める。

一方、時の地主西郷従徳は明治天皇遺蹟保存会の会長を務めていた。自作農創設の相談を持ち掛けられると即刻快諾し、仙台へ行った帰り県庁に寄り萱場軍蔵県知事に手続きを依頼する。県知事は富田小作官を現地に遣わし調査させ、調停案を以下の様に定める。また、住民側としてこのとき必要になった書類作成は古谷音吉が担当した。

参考までに蕎麦の値段は昭和10年と比較すると平成29年現在で6000倍程度。一反は300坪。

農地の払下げに関して、水田は(一等地1反165円 二等地1反150円 三等地1反100円 水田総面積65町歩)、畑地は(1等地1反55円 2等地1反40円 3等地1反25円 畑合計90町歩)を基準とされた。資金3分の2は宇都宮の勧業銀行より借入れ、のこり3分の1は地主貸付とし、その支払いは20年払いとした。この時、銀行より数人の返済能力を疑われ、星野五郎作が保証人となる。また、地主より、土地代金1000円に対し50円の還付を受けている。これら返済は10年で完了している。次に、以下の物件は無償にて譲渡されている。@八幡神社境内A公民館敷地B共同墓地C農道と水路D四万本区域に西郷神社祭礼費とし一戸に付き5畝の地を57戸分。E倉庫(9.9u)。この時の農場管理者は田中春作が務めていた。

無償譲渡を受けた中の倉庫は、青年会館として多目的集会の場に利用され、昭和32年に老朽化のため住民の寄付により公民館に建て替えられている。現在の集落センターの場所であろう。

昭和12年12月13日、双方の代表者集まり調停をし、その月末までに加治屋区における自作農創設事務は終了した。この時の農場管理者は山田兼松であろう。

ちなみに、この男気あふれる星野五郎作という人は、昭和47年、青年教室において「社会に奉仕することは大切だ。そうして皆が協力する精神を忘れてはならない。そうして家を起こす。隣り近所が栄えること。組を育てる。村を育てる。」と熱く語っていたという。

永田区に持っていた30町歩と市街地宅地は、借地人の希望で分譲するとした。宅地は赤羽熊吉、農地は村上盛一が代表となり、黒磯町長菊地恒八郎が仲介を務めた。農地は先の加治屋区の条件と同一にし、市街宅地は15等級に区分した。市街宅地1等地は坪15円、15等級は坪70銭で円満妥結。この事務処理も昭和12年末には終わる。

従徳は、さらに奇特なことに、いままで西那須野町に貸し付けていた土地を同町に寄付している。寄付をした区域を以下に示す。@東小学校敷地1町4反7畝5歩 A中央公民館敷地 B役場敷地576坪87 C巡査駐在所74坪8 D永田区公会堂敷地124坪 E町道敷地1町1畝2歩 F愛宕神社敷地2反7畝5歩。町が相手なのだから地権を持っていれば安全に半永久的に地代が自動的に入ってくるのに、それを無償で手放すということは、相当おかしな行動ではないだろうか。西郷さんちは余程お金に無頓着なのか西那須野町に貢献したかったのか。非常に興味深い。

これにより、昭和12年12月を以て西郷農場は解散となる。

●西郷農場歴代管理者

ここで、加治屋開墾から西郷農場の歴代管理者を整理してみよう。興野寿が初代である。彼が大正4年に死去した後、平峰元、石井茂輔、小池伊三郎、田中春作、山田兼松と続き幕を閉じる。平峰元という人は西南戦争に西郷軍として参加し田原坂の戦いで足を負傷し、歩行が不自由となる。役の後、大蔵省の役人を経て西郷家につかえる。興野寿死後管理人を任され、水田の灌漑開田の事や小作全般の事でよく区民と談合を持ったようだ。田中春作という人も、西郷家につかえていた人で終戦後には職を辞し加治屋に住み付き後に加治屋区長になるが、後に再び目黒の西郷家に戻る。最後の管理人は山田兼松。この人は西那須野町永田出身で、馬車の係として西郷家につかえていたが、いつの頃か故郷に戻り小作農をしていた。加治屋自作農創設後は、西郷家別邸に入り留守番、貸地の地代徴収などを任される。

●自作農創設の感恩碑を建てる

昭和14年、西郷従徳は、永田の別荘を西郷神社脇に移設し、加治屋地内の西郷家所有の山林30町歩を旧小作人に分譲する。

西郷農場解散から2年が過ぎた昭和15年8月18日。加治屋区民は57戸となる。昭和12年自作農創設の感謝の意を込めて西郷神社内に感恩碑を建てる。「敬天愛人」の揮毫は従道の次の当主従徳によるもので、碑文は横山健堂による。感恩碑の碑文を原文のまま以下に載せるが読みにくい漢字にはカッコ書きで振り仮名を振る。

西郷神社感恩碑「敬天愛人 当農場の開祖は維新の元勲西郷従道候也 候夙(ツト)に農耕を愛好す 明治十四年農商務卿として国有荒蕪地の開拓を奨励するに当り 範を天下に示さんため、従脚兄大山巌公と相謀り那須野ヶ原の国有荒蕪地五百町歩を払下げ耕牧植林を共同企画するや 令兄大西郷の従者永田熊吉を遣し 参画せしめ翌年春事業に着手し黒羽旧藩士興野隆政を現場監督とす 爾来(ジライ)二十年全部の開墾を終り、両家合意の上各二百五十町歩を領有し 独自経営となす 傍小作人の住居を許し恩遇甚だ渥し、三十五年七月一八日候東京に薨(コウ)ず 区民哀慕惜く能(アタワ)ず 翌年西郷神社を創建し 八月十八日例大祭と定めた 嗣子(シシ)従徳候遺業を継承し益諸般の施設改良を施し区民に対し慈父の児に接する如く先候の風格を伝う 農場創業以来六十余年此の処に至って、昔時の荒蕪地は一変して模範農場となり昭和拾壱年秋区民自作農創設の議を歎願するや 候時勢を達観して直ちに快諾し、栃木県庁に萱場知を訪問して其手続きを協議せられ翌年末実現を見るに至る 区民の歓喜極まりなしこゝに皇紀二千六百年の佳年を迎ふ、従徳の揮毫(キゴウ)を請得て感恩碑を社頭に建立し以て西郷候父子の恩徳を永遠に記念するといふ。皇紀二千六百年八月十八日 昭和十五年八月十八日 東京横山健堂」

昭和16年12月、日本軍が真珠湾に攻撃を行い、2000人を超える尊い命を奪う。

●加治屋に電気が入る

昭和17年、河崎藤吉が区長の時、電気を引き入れることの利点を再検討し、賛同の得られた中組と東組の一部分に電気が引かれ、同年2月12日に送電が開始される。電気設備の導入費用は一軒120円程度であった。蕎麦一杯の値段は平成現在の4000分の1程度であることを参考に現在価値に換算してみると、電気導入費用は48万円相当。昭和13年の区長が星野五郎作の時にも電気会社から話を持ち掛けられたが、その時は流れている。

●太平洋戦争と加治屋

昭和17年6月。日本軍はミッドウェー海戦において米軍に大敗を喫す。おそらくこの時を境に、本土の生活は平穏ではなくなってくる。

昭和18年、第二次世界大戦激化。食料不足により政府に農作物増産を強制される。加治屋においては麦の供出を強要されたが、うまくいかない土地柄であったので予想通り失敗する。

昭和20、硫黄島、沖縄と米軍に侵攻される。続き同年宇都宮大空襲。加治屋においても原町の中島飛行場に対し空襲があり、隠れる所もなくすごく怖かったと聞く。

●終戦直後の様子

昭和20年8月15日終戦。このとき戸数80戸。昭和20年までの組名は上組、西組、中組、東組、下組(現在は桜組・旭組)であった。

終戦直後、極度の物資不足の時、加治屋区は、石橋政次郎を中心に、西郷家に米を献納することに決めた。菊の会と命名した。菊の文字は西郷家の家紋による。一戸に付き一升献納する。5合ずつ春と秋に分ける。祭日には一戸に付き卵2個。物資の供給が安定するまで続いた。

昭和21年2月6日。西郷従徳68歳で死去(Wikipediaより)。郷土誌では従徳さんの死に触れていないが、彼こそ西那須野に貢献したと思う。

昭和21年頃、加治屋区、20数本の水路を掘り湧き水を利用することで水田は60町歩以上になる。

●昭和22年頃、加治屋83番地の分譲

従徳が死去した翌年の昭和22年春、西郷従吾より加治屋区に対し83番地を売却したい旨の文書が届く。83番地とは西郷神社のある区画である。この時の風景を思い描くと、昭和14年に西那須野永田区から西郷神社脇に移してきた西郷家別邸はまだ建っていたのだろう。そしてその周辺の83番地は西郷家の敷地としていたのだろう。加治屋の古い人が言うには「神社前の広場に屋敷が建っていた」というだけであって西郷家別邸という認識はなかったようだ。郷土誌からもその認識は読み取れないので、自作農以降西郷家の出入りはなかったのかもしれない。しかし所有権は西郷家が持っていたのだろう。従徳が死去したことをきっかけに、後継ぎの従吾は83番地と神社境内内屋敷を古河鉱業(フルカワコウギョウ)という東京丸ビルに本社を持つ企業に売却したのだろう。実際の売買は西郷家とではなく古河鉱業と行ったようなので、従吾は売買の仲介をしたのだろう。余談になるが、この古河鉱業の6代目の社長古河従純(1904年生〜1967年没)は西郷従徳の子であり、この時には社長から退いているが古河財閥の当主で健在である。郷土誌にある「昭和14年に西郷神社脇に移設された西那須野永田区の西郷家別邸は後に某企業家に売却された(要約)」のはこの時のことで某企業家は古河鉱業であろう。また「西郷神社周辺の山林3反歩を残した残り19町歩余を分譲した」とあるので、この時の売買は正確には西郷神社敷地3反歩を除く83番地の山林であろう。神社境内は西郷家所有のままで、境内内屋敷は古河鉱業にいつどうされたのかわからない。

西郷神社境内を除く83番地売買契約の内容は、野崎街道より北側、二つ室通りより西側一帯21町歩9反。森林を伐採した上で一反当たり800円の17万5000円でとある。参考までに、この頃と平成29年現在の蕎麦一杯の値段と日雇い賃金は42倍になっている[3]ので、一反の価格は現在の価値で34,000円ほどであろうか。石沢善作氏が取り仕切り赤字のないように調整し、諸経費は関係者一同で負担したとあるが、この時政府は食糧増産に躍起になっているときであり、1反につき1000円の交付を受けられたというので、最終的には加治屋の農家としての出費はなかったのであろう。

●昭和中頃の様子

昭和25年、朝鮮特需により景気が上向く。

昭和25、26年ころより電気揚水による開田が進む。収穫量も遂に他の地域を上回る。

昭和28年町村合併促進法が施行される。大田原・西那須野・狩野での合併が話し合われるが、政治的思惑から昭和30年に西那須野町と狩野村のみで合併。

昭和30年4月1日、この時94戸。西那須野町から大田原市に編入し大田原市加治屋となる。これにより加治屋住民こぞって西原小学校、大田原中学校に通学が可能になった。それ以前は、加治屋区民は地域ごとに親園小学校、南小学校、東小学校、大田原小学校に分かれ通学していた。

昭和32年、青年会館を老朽化により解体。部落民寄付により公民館を新築。水田68町歩。

昭和40年8月18日、西郷神社例大祭とともに自作農創設30周年記念祭を行う。自作農創設の時5畝の土地を受領した54人の者より寄付を募り佐久山の陶工福原達郎に月光焼の壺一基購入し記念品として用意したが、招待された西郷従吾、大山柏、田中春作の西郷家側の方々は、三人とも出席できなかったので、記念品は後日西郷家に持参した。ちなみに、この時西郷従吾は外務省の嘱託員で多忙を極め、また西郷家としては会社を興し三菱の子会社としてアクリル製品を提供しているようで、田中春作はこれに係わりこれまた多忙であったらしい。余談だが、三菱といえば岩崎弥太郎であるが、明治初期賢く一人莫大な富を増やし続ける岩崎弥太郎に西郷従道は「三菱の暴富は国賊なり」と非難した過去がある。

 

おしまい。昭和後期以降の様子は加治屋郷土誌を参照願いたし。

 

<付録>

●加治屋開墾から西郷農場時代ごろまでの区長の変遷

以下には歴代区長が時系列に並んでいる。カッコ書きは区長就任の年を示す

@興野寿 A相良伊平 B木下安右衛門(明治35年) C溝口定次郎 D興野欣哉 E溝口黒右衛門(明治36年) F石橋巳之助(明治37年) G山本芳太郎(大正元年) H河崎与次郎 I溝口重次郎(大正8年)J木下幸三(大正15年) K星野辰吉 13溝口重次郎(昭和3年) 14溝口幸次郎(昭和5年) 15河崎藤吉(昭和7年) 16溝口重次郎(昭和9年) 17星野五郎作(昭和10年) 18木下重次郎(昭和15年)


<参考文献>

[1]加治屋郷土誌(編纂開始昭和47年、発行昭和56年)

[2]那須野が原入門講座 「那須野が原開拓の先駆者 加勢友助」若月延雄

http://www2.city.nasushiobara.lg.jp/hakubutsukan/ishigurakai/nyumon/h28_wakatuki.pdf

[3]明治〜平成値段史 http://sirakawa.b.la9.jp/Coin/J077.htm

[4]旧高旧領取調帳(那須郡の部)

[5]江戸末期の村落と領主(GoogleMap)

https://www.google.co.jp/maps/@36.9034536,139.9582785,12z/data=!4m2!6m1!1s13ZwzjOPnGlGcUIF01stcFxw5_ZY?hl=ja&authuser=0

[6]大田原市史後編

[7]陸地測量部発行5万分の1地形図、明治40-42年測量 昭和4年測量 昭和27年測量の、大田原 塩原 喜連川 矢板 の地区を参考にする。現在国土地理院の管理。

 ●https://drive.google.com/drive/folders/0B4-qwBGXsVmjdjJldnAteUd1SlEより加治屋資料ダウンロードできます。

修正履歴
平成29年7月1日、旧日光北街道と日光北街道を混同していたことを修正
平成29年7月17日、興野寿のことを補足
平成29年8月24日、浅野村について修正
平成29年9月13日、二つ室頭無について追記

ご意見ご指摘よろしくお願いします。goto.giorgio.takashi@goto-seikotsuin.sakura.ne.jp

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