那須開墾社と模範混同農業予定地のこと
発行令和3年4月18日
修正令和4年5月1日
旧西那須野町の郷土誌を読んで気になったことを調べて、分かったことを記します。
<目次>
・「那須開墾社の明治13年拝借地」と「模範混同農業予定地」の区域の推定
・猿ヶ谷という地名について
・親王台(一本木農場跡)前の通りは、開拓前の道ではなかろうか。赤田(那須塩原市)に抜けていたのではないだろうか
・明治40年の地形図に見える日光北街道上の「独立広葉樹(なんじゃもんじゃの木)」について
・那須開墾社地内の原方街道の槻沢通りについて
・これら那須開墾社の事をGoogleマップに書き込んでみた
<「那須開墾社の明治13年拝借地」と「模範混同農業予定地」の区域の推定>
(1.郷土誌にある境界線はあり得ない)
一次資料の内容をまとめると次の通り。
●明治13年、印南上作率いる那須開墾社は、那須野ヶ原のうちの箒川と蛇尾川に挟まれた西ノ原と呼ばれる土地において、明治初期に三角測量を試みた那須基線の周囲3000町歩を国から貸下げを受け開拓を始める。
●明治14年、先の那須開墾社第一次拝借地3000町歩と大田原町に挟まれた場所には内務省勧農局が模範混同農業を行おうとしていた未開拓の1000町歩がまだ手つかずのままにあり、那須開墾社はこの土地の貸下げも受けたく、「従来親園村に属する官有秣場99町歩」を除いた約900町歩の貸下げ申請を行った。貸下げの許可は降りたが結果的にそのうちの500町歩は、大山巌と西郷従道の加治屋開墾に譲り渡し、残り400町歩の貸下げを受けた。
→これを基に「西那須野の開拓史」は、その208ページに以下のような図を描いているが、この図は正しくない。
この境界の設定の仕方では、那須開墾社が明治14年に貸下げを受けた400町歩が220町歩にしかならないし、明治13年第一次申請の3000町歩も3180町歩となってしまい歴史資料と数字が合わなくなってしまう。そもそも那須開墾社は、明治13年貸下げ申請の際に、「字赤田山から二つ室前」を貸してくれと申し出ている。二つ室前なのだから、二つ室岳を明治13年一次申請地に含めて解釈するのはおかしい。またこの裏付けとして、明治14年の第二次の貸下げ申請では「西は二つ室、北は南郷屋、南東は親園」の区画を追加で貸してくれと申し出ているので、「今度は」明治14年第二次の貸下げ地に二つ室岳が含まれないといけない。
多くの人がこの図を信じている。この図は非常にいけない。
なので、僭越ながら加治屋住民であるにもかかわらず、意を決して私見を述べたい。下の図で視覚的に整理したので参考にされたい。
まず勧農局(国)と那須開墾社は、「那須基線」を地区分割の基準のひとつにしているようにみえる。那須基線とは当時内務省管轄で日本国土を精密に測量しようとすべく設置した基準の直線で、親園から千本松牧場まで「一直線」に引かれた線。現在は「一部」縦道として利用されている。那須野ヶ原開拓期、その那須基線は区画整理に明らかに利用されている。現に加治屋区と西那須野町一区町の境界は、那須基線に平行になっている。もうひとつ、明治前からある道も地区分割の基準に利用している。主なものは原方街道だ。模範混同農業予定地と明治13年那須開墾社拝借地の境界は、下図の様に「原方街道」に加え「那須基線と平行な線」を用いたのだと思う。
では、印南上作と国との間で最初に取り決められた「地割」の境界は、日光北街道上のどこか。鷹巣茅場西端の深川(深川水源)だと思う。現在でも「なんじゃもんじゃの木」として地元民に慕われてきたあの場所近く。そこから那須基線と平行な線を以て境界としたのではないだろうか。そのような推測で境界を設定し精査すると、那須開墾社拝借地を「明治13年拝借分3000町歩」「14年拝借分400町歩」と丁度、一次資料の通りに分けられる。
(2・模範混同農業予定地の区画の推定)
次に、模範混同農業予定地とはどのあたりだろう。西那須野町関連歴史書ではあまり深く語られていない。開拓前のことを誰も知らないからだと思う。
まず、明治14年に那須開墾社が貸下げ申請から除外した「従来親園村に属する官有秣場99町歩」を考える。実取村地内には下の図にも示したが鷹巣茅場と呼ばれる秣場があった。明治40年の地図に鷹巣茅場から連続するように親園五本木区域にも秣場が見える。連続しているが明治14年当時、実取村と親園村はそれぞれ独立していたので、那須開墾社があえて「親園村の秣場」と指定していることに注目すると、鷹巣茅場は模範混同農場予定地に含まれていなかった事を意味すると思う。明治40年ごろの地図を眺めると、断片的にではあるが、浅野村から一本木に通じる道が見える。これを基準にしながら鷹巣茅場を省くと丁度99町歩くらいに切り取れる。ここが「従来親園村に属する官有秣場99町歩」だと思う。現在この場所は親園の区域で、五本木と清三郎の地区がこれに重なる。
また、現在認識されている加治屋の区画の中には、当時加勢の地と呼ばれた加勢開拓の土地が存在していて、ここも混同農場予定地ではない。「狐山」を境にしたと思われる。 加勢の地の区画の推定は、「大田原市加治屋の歴史〜江戸時代から昭和中期〜」の「加治屋区原初の200町歩と加勢の地
つまり、勧農局の模範混同農業予定地は、大田原の原町周辺に広がる荒蕪地から鷹巣茅場と加勢開拓を除いた「後の永田区」と「後の加治屋区」と「那須開墾社拝借地400町歩」と「従来親園村に属する官有秣場」の1000町歩ということになる。
ちなみに、後の加治屋区と一区の境界のことだけど、那須基線に平行な線に加えて小丸山を基準にしている様に見える。 明治13年12月22日は一本木事務所に入った直後頃、那須開墾社農業日誌に、田代荒次郎(大田原宿の人で県会議員)より送られてきた信書に「勧農局交換地二つ室モ山一ツダケハ本社ニ渡スベシ」とあった様に二つ室に連なる山を土地分割の基準にしたのだと思う。ところでこの小丸山は、地形図上、一度たりとして加治屋の区域にあったことはないのだが、加治屋の人は小丸山の東側の土地を「小丸山」と呼んで農耕に利用しているのは、そんな経緯があったからかもしれない。
(3・深川水源地を境界と推定した整合性)
この境界を用いることで、西那須野町の開拓史67ページにある明治21年の「二つ室」と「二つ室前」の面積を、丁度地図に当てはめることができる。
西那須野村区域の地区設定の図でもっとも古いものは西那須野町の行政史の181ページにある「明治26年の地図」のようだが、ここに描かれた「二つ室」「二つ室前」の境界を利用すると、明治21年のそれぞれの面積を地図に当てはめられない。21年と26年では境界線が大きく異なるようだ。そこで、先に提案した「深川水源地と那須基線に平行な線」を境界に設定すると、丁度資料に合致した面積の区画が現れる。
<猿ヶ谷という地名について>
一区町地内において明治16年から明治22年までの7年間、競馬が開催されていた。二つ室猿ヶ谷競馬場と認知されている。それについて知りたい方は、「那須野ヶ原開拓史研究第32号収録の下野那須競馬会始末(西山蕗子著)」を手に取ってほしい。
この競馬場について、西那須野町及び地内の集落の郷土誌において触れられてはいるが全て西山さんの論文の引用で終わっている。この競馬場の場所については西山さんが特定してくれたが、その形状までの考察はされていない。なので僭越ながら僕の方でその形状を推測してみたので、興味があったらどうぞ→「二つ室猿ヶ谷競馬場の形状の推測」。
ところでこの猿ヶ谷という地名。西那須野町地内の郷土誌においてこの猿ヶ谷の所在に迫ろうとしたのは最初に二区開拓史。明治17年4月における那須開墾社拝借地内に設置した字名を列挙し地図に示そうと試みている。残念ながら、猿ヶ谷の場所は特定できなかったようで、あやふやな感じに記入されている。後年、二つ室郷土誌がその記事をバージョンアップさせ掲載している。しかしそれでも、猿ヶ谷の所在については二区の記載を踏襲してあやふやなままだ。西山さんのみがこの場所を猿ヶ谷と特定している。
参考までに、二つ室郷土誌で加筆修正を加えられた明治17年4月時点の那須開墾社地内の字名を列挙する。一番地一本木 二番地一区 三番地薄葉境 四番地石上道下 5番地石上道上 6番地二ツ室西 7番地二ツ室前 8番地猿ヶ谷 9番地加治屋 10番地二ツ室 11番地頭ナシ 12番地永田 13番地二ツ室北 14番地二区 15番地三角 16番地一本松 17番地新道添 18番地烏森宿西 19番地烏ヶ森 20番地三区 21番地赤田横道 22番地四区
これらを地図に記入してみた。西山さんが競馬場とした場所を猿ヶ谷とした場合、明治17年の字名を順序良く並べられるので、猿ヶ谷はこのあたりで間違いないと思う。あとは二つ室と猿ヶ谷の境界がわからない。原方街道か那須基線に垂直な横道か。猿ヶ谷で競馬会を開催した那須競馬会は、明治16年社則に「本会を二つ室に置きその接続の地に競馬場を置く(要約)」という。そして明治20年改正の社則に「本会を二つ室に置き競馬場を猿ヶ谷に置く(要約」という。ということは、競馬場直近の原方街道石林通り沿い西側に那須競馬会事務所があった様に読める。としたならば二つ室と猿ヶ谷の境界は原方街道だったことになる。しかし西那須野町歴史書籍に那須競馬会本社の場所に関する記述は見当たらない。
<親王台(一本木農場)前の通りは、開拓以前の主要な道ではなかろうか。赤田(那須塩原市)に抜けていたのではないだろうか>
親王台のある一本木農場脇の道は那須基線(≒縦道)に平行ではない。さらにそれが旧日光北街道に接する所に、江戸時代の文化年間に建てられた道標があり、「左にひやり、右に日光」とあるらしい。ひやりの議論は脇に置き、少なくともこの道標は関谷方面から西ノ原を突っ切って来た人へのメッセージだ。この道を自然な経路で北に伸ばしていくと、赤田に突き当たる。この道は江戸時代からある関谷塩原方面への主要街道だったのではないだろうか。
<明治40年の地形図に見える日光北街道上の独立広葉樹(なんじゃもんじゃの木)について>
那須開墾社拝借地内には、江戸時代からの物流ルートの原方街道が通っていた。槻沢通りと石林通りにわかれるが、明治40年の地図上でそれぞれ日光北街道に向かってまっすぐ伸ばしてみると、独立広葉樹の記号があるところに突き当たる。原方街道の分岐点の目印を思わせる。石林通りの方では「なんじゃもんじゃの木」として植え替えをしながら現在も存続しているが、槻沢通りの方の独立樹は現在ない。その代わりなのか、松尾芭蕉的な謎の石碑がある。
ここで妄想タイム。
明治42年の地形図を眺めていて思うことは、なんじゃもんじゃの木がある地点は、江戸期において交通の要所だったのだと思う。まず近くに深川水源地があり水がわいていたと思う。そこを「東に向かえば浅野-赤瀬経由-黒羽方面」「西に向かえば石上経由の関谷方面」「北に向かうなら北ノ原の悪路をひたすら進んで赤田-関谷方面」それと日光北街道の「大田原町方面か氏家宿や阿久津河岸方面」に原方街道の「平沢方面か石林方面」7方向。
ここ「一本木」に印南上作は農場を作り競馬をやった事実を鑑みると、江戸期においては、もしかしたら一本木は非常に栄えていた土地だったのかもしれない。
<那須開墾社地内の原方街道の槻沢通りについて>
先に挙げた西那須野町の開拓史208頁の「那須開墾社の貸下げ地略図」だが、そこに描かれている原方街道槻沢通りが沢を経由して矢板村方面に抜けるような道筋に描かれている。
那須塩原市HP掲載の原街道絵図(http://www.city.nasushiobara.lg.jp/44/001725.html)が発想のもとになっているのだろうか。しかしこの絵図は、原街道絵図といいながら「明治時代の国内通運会社制度の絵図」と説明書きがされてある。どういった経緯で「原街道絵図」なのだろうか。
この「国内通運会社制度の絵図」は黒磯以南の輸送路を示した図という。川の形状から左から那珂川、蛇尾川、箒川、内川、荒川、鬼怒川のようだ。概ね横に三本からなる道は一番上が奥州街道だ。真ん中が原方街道平沢経由の通りで、一番下は原方街道槻沢通りから沢を経由する日光北街道を経て矢板で会津中街道に折れ氏家に至る経路が描かれているのだと思う。ちなみに那須塩原市HPにおける図(上の図はその複写)の右下の拡大図は「箒川と内川の矢板方面の区間」だ。われら印南上作率いる那須開墾社が開拓した那須西原はその左となりだ。
下にピックアップした。この区画を再度整理すると、上から一番線は奥州街道、上から2番線が原方街道石林通り、上から3番線が原方街道槻沢通りから日光北街道だ。日光北街道は左上がりに伸びて奥州街道に合流している。この絵図が原方街道研究の基礎になっているのだろうか。
ところで、原方街道に挟まれた日光街道部分に、交差する二本の道が見える。本稿最下部で表現しているので参考にしてほしい。
ちなみに1645年ごろに設置された原方街道の当初の経路は平沢ー槻沢ー東小屋だと思うが、平沢に残る1740年の道標には石林への案内となっているようだ。明治40年ごろの地形図をみても平沢から北に延びる道は槻沢方面ではなく石林を向いている。設置から比較的早い時期に、原方街道の経路は改変されたのだろうか。
また、原方街道が沢を経由したと仮定した場合つまり日光北街道に合流した場合、下の図の標高図が示すように、箒川渡河点は現在のかさね橋からやや下流部分、沢観音わきの墓地を降りた「十字」で示した道の先が適切だと思う。明治42年陸地測量部の矢板5万分1地図においてもそこが渡河点になっている。現在はレプリカのような橋が架かっている場所がそれだ。「那須開墾社の貸下げ地略図」は薄葉の高性寺の裏手あたりを無理やり通っているように見えるが、日光北街道の直近に平行する道を維持する必要があっただろうか。日光北街道を通ってある程度の所で折れればいいのだから。さらに言うと高性寺裏道に行く必要があっただろうか。明治40年の地図では沢漢音脇から高性寺前方面に箒川を斜めに横断しているが、レプリカの橋がある先の土手に登って箒川を眺めると、箒川を垂直に渡った方が合理的に思うし、その先に八雲神社に抜ける丁度いい古い道がある。しかもその道の直ぐ東側には薄葉大塚古墳がある。どちらかという薄葉地内の初期の街道は現在の道より東側の古道ではないだろうか。
<那須開墾社の事をGoogleマップに書き込んでみた>
以上のことをGoogleマップにかきこんでみた
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