二つ室猿ヶ谷競馬場の形状の推測

令和3年4月8日発行

<二つ室猿ヶ谷競馬場の形状の推測>

https://www.google.co.jp/maps/@36.8473759,139.9921662,1064m/data=!3m1!1e3!4m2!6m1!1s1XJpbLRFbtVyUDAMATK7-hYF9N2MkqNKe?hl=ja&authuser=0

現在の那須塩原市一区町地内の加治屋に接するあたり(36°50'49.9"N 139°59'32.8"E)で、明治16年から明治22年までの7年間、賭け事を行わない健全な競馬が行われていたようです。二つ室猿ヶ谷競馬場跡として知られていると思いますが、その形状まで追求されていない様なので、その形状を推測してみました。おそらく、下図のような形状で、コース外縁871m/コース内縁763m/コース幅15m程度のものだったと思います。その根拠を述べていきます。

<西山蕗子さん論文中の競馬場挿絵について>

この競馬場についての研究発表はおそらく唯一、「那須野ヶ原開拓史研究第32号」に収録の論文「下野那須競馬会始末:西山蕗子さん著作」のみと思われます。その論文を、西那須野町やその中の各自治体は引用して掲載しています。
その論文中に「二ツ室猿ヶ谷競馬場」と題された下の様な挿絵があり、一見してこれが競馬場の形状だと思ってしまうかもしれませんが、これは、「明治22年競馬会執行願に添付された見取図」を「近年の地形図」に合成しただけのもので、競馬場の形状を推定したものではないようです。
那須競馬会の規則に「コース長1600m」とあることと、明治16年に開催された第一回競馬会が栃木新聞で報じられた際にも同様に「コース長1600m」と報じられたことについて、「土地の大きさから考えてコースの長さは800m程度が限度」であると主張することを目的とした図の様です。

<猿ヶ谷競馬場の遺構と思われる土堤>

明治40年の地形図上に謎の半円の土堤がある。この土堤の形状に合わせて、競馬場コースの形状を推理した。
西山さん論文中では、この土堤が競馬場の痕跡だとし、地域住民の話を聞いている。地域住民によれば「昭和26年、水田にするために撤去しないといけない土堤があった。その土堤は、大きく円形で旧街道の方までつながっており、内側は盛り上がったクヌギ山で周縁には檜が植えられていた。先々代にこの地で『馬の競争』があったことを聞かされていた。」という。
ちなみに、その土堤に囲まれてる黒塗り記号は池です。昭和4年には土堤が見られないので、池を保つための堤防ではなかったことがわかります。

   

<当時の競馬場の一般的な規模>

江戸時代から明治20年ごろまでに開催された競馬場の規模を整理してみると以下のようになる。(Wikipediaなどネット情報による)

文久2年(1862年) 横浜新田競馬場 周1200m幅11m
明治3年 招魂社競馬 周909m
明治8年 吹上御苑競馬 周738m
明治10年 三田育種馬場競馬 周1127m 幅14.5m
明治12年 富山学校競馬 周1280m
明治16年 函館海岸町競馬場 周800m 幅14.5m
明治17年 上野不忍池競馬場 周1600m 幅21.8m
明治20年 中島遊園地競馬場 周950m 幅14.5m

那須競馬会開催16年ごろの、一般的な競馬場の規模の常識は、おおむね一周900m前後で、コース幅14.5mのようである。本稿で推定した猿ヶ谷競馬場は、この規模を基にしている。


<招魂社競馬の形状の再現>

https://www.google.co.jp/maps/@36.8473759,139.9921662,1064m/data=!3m1!1e3!4m2!6m1!1s1XJpbLRFbtVyUDAMATK7-hYF9N2MkqNKe?hl=ja&authuser=0

招魂社競馬(靖国神社境内にて開催)は明治3年に始まって、猿ヶ谷競馬場はそれを模しているかもしれない。招魂社競馬についてWikipediaにかなり精巧な模式図があるので、googlmap上に再現して計測してみると、コース外縁862m/コース内縁763m./コース幅12mだったようです。
これは、本稿で想定している猿ヶ谷競馬場とまったくの同規模です。


靖国神社境内図Wikipedia「招魂社競馬」の頁より↑


靖国神社境内図の競馬場をGoogleMapに描写したもの↑

<二つ室猿ヶ谷競馬場というネーミングについて>

西山さんはどういう考えでこのネーミングにしたのだろう。二つ室も猿ヶ谷も字名だ。字名+字名の命名には非常に違和感を感じる。西山さん論文中にある那須競馬会の広告には、「那須西原字二つ室」で行うというだけしかない。なぜ二つ室「猿ヶ谷」なんだろう。二つ室は大字で、猿ヶ谷は小字のような扱いなのだろうか。

那須開墾社は国から土地を借りて開墾を開始するのだが、明治13年の第一次拝借地と明治14年の第二次拝借地にわけられ、それぞれ「二つ室前」を含む3000町歩と「二つ室」を含む400町歩で、二つ室岳を基準にしていることは間違いない。競馬場は、16年の設立時の会規約に「競馬会本社を開墾社拝借地内字二つ室に、競馬場は本会に接続の地」というので、競馬場は少なくとも「二つ室前」でも「一本木」ではない。二つ室かその近くに作られた。つまり明治16年時点ではこの競馬場あたりまで二つ室とよんでいたということだ。
二区開拓史によると17年6月に那須野村としての字名を設定したといい、その中に「二つ室」とは別に「猿ヶ谷」が設置されたという。二区調べでは猿ヶ谷の場所を特定できていないが、競馬場付近が猿ヶ谷ということのようだ。明治21年の字名改正により猿ヶ谷の字名は消滅し、競馬場は一本木の区域になっている。にもかかわらず、明治20年3月、那須競馬会は支会を鶴田村東原に設置するため、その許可願いを出した際に添付された改正規則に「本会を那須西原那須開墾社地内字二つ室に置き本会馬場を字猿ヶ谷に定める」という。一本木と設定した地なのに、あえて猿ヶ谷と指定している。基本的に猿ヶ谷は小字的な地名なのかもしれない。
としたら、明治16年の那須競馬会発足時にも、「二つ室の地にある猿ヶ谷」という認識は存在していたのかもしれない。ということなのだろうか。

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