氏家町大野(現さくら市)の歴史〜終戦直後まで〜

平成30年7月31日発行
令和2年2月17日加筆

本稿は、大野自治会が発行した「大野の歩み」と古地図を参考に、戦後直後あたりまでの大野の歴史をまとめたものである。

<大野の興り>
栃木県さくら市に大野という地区がある。明治初期に入植が始まるまで、この土地に人は住んでいなかったようだが、大田原中学校前の県道48号線はとても古い道で、原方街道(牛街道)と呼ばれる奥州街道の脇道だった。氏家宿からここを通り鷲宿を経由し白河に向かう道で、荷物を積んだ牛と人が沢山行きかってたと思う。大野という名称は昭和10年に名付けられたもので、それ以前はウワノッパラ(上野原)と呼ばれていたらしい。ちなみに、近所の年寄りのネイティブな発音は「ワノッパラ」である。この地はその名の通り元々は草地だったようだが、明治から昭和にかけて山林地帯であった理由は、桜野の滝沢家がクヌギ、ナラ、檜、松、杉を植えたことによるらしい。大野のほとんどが桜野の滝沢家の所有であったようだ。明治の入植者により最初に開拓された土地は「箱森新田に近い原方街道沿い」と「氏家中学校脇を流れる冷子川南側」のようだ。大野地区は松山新田、松山本田、並木、桜野、横町、馬場、長久保に接する。

明治42年と昭和4年の地形図を以下に示す。さらにGoogleMap上に昭和4年の様子を再現してみた。

明治42年地形図


昭和4年地形図


Googleマップに昭和4年を再現

<地形図から読み取れる歴史>
地図記号についてはこちらを参考にしてほしい。「明治40年代の地図記号」

地形図をみると、東西に伸びる並木道が見える。現在の、ふれあい保育園とか太陽フーズのある道であるが、昔は烏山道路と呼ばれ、桧の並木道であったらしい。現在は並木道だった形跡は皆無である。名前の通り、大野から狹間田を抜け烏山に行ける。ところで、この道はわざわざ並木で飾り付けまでしているが、その目的はなんだったのだろう。

明治時期に入植された3世帯は、黒ぽちの記号でその所在がうかがえる。

明治42年と昭和4年を見比べると、明治42年では森林ばかりであるが、昭和4年には水田と更地が出来上がっている。
まず水田は、約17町歩も開田されている。すばらしい。まず一カ所目は氏家中学校南側に約5.5町歩の水田が見える。地図上に水路が見えないが、五行川から取水した現在の用水路と同じ区域に昭和4年の開田がなされていることから考えると、昭和4年の段階で現在の灌漑は完成していたのだろうか。2カ所目は、箱森新田手前に約11.5町歩。こちらは市の堀から取水している。それらを合計すると約17町歩ほどの水田が後に大野となる「ウワノッパラ」には既にあったようだ。
さら地も増えているようだ。上松山小北交差点から南西方面の区画(3488番地、3489番地)と太陽フーズのあたり(3498番地)の森林の記号が昭和4年にはなくなっている。ちなみに、太陽フーズの辺りは豊富に水が湧いていたらしい。
大野の区域の外にはなるが、大野の西方面、国道4号線と烏山道路の交差点を中心に開墾された形跡がある。大野の人の言う「県道西側一帯の開墾」はこのことだろう。


<「大野のあゆみ」のまとめ>

製本前の「手書きの大野のあゆみ」にしかない記述だが、「明治の初め、現在の上松山小学校が立地している場所から西へ300mほどの場所に人が住んでいたが、生活苦のために疎開した。彼らの墓石が日東工器付近で見つかった。」と書いてある。

明治28年、後の大野「ウワノッパラ」で、転入が確認できる最初の世帯は、明治28年の転入である。ちなみに、明治期には合計3世帯入居することになる。測量図に黒い点で表されている。

昭和4年まで、後の大野地区に家を建てる際に県より補助金が出たらしい。条件は15坪以上の家を建てるというもので、補助金210円と自己支出50円を要した。

昭和5年ごろ、教習所辺りを除いた県道西側一帯が開墾された。ただしこのエリアは大野ではなく、おそらく氏家北と呼ばれた地区。

昭和9年年末時点での世帯数は11戸。この年まで後の大野ウワノッパラには自治会は存在せず、住民は松山新田か桜野の自治会に属していた。

昭和10年。住民で意見を寄せ合い集落名を大野とし自治会が発足した。前年までに入居している11世帯による協議と思われる。

昭和16年、滝沢氏所有の土地53町歩において以下の開拓が行われる。開墾一区として3498番地(太陽フーズの交差点から南東方面)から並木の境(運動公園手前)までの28町歩を第一工事が請負い、開墾二区として上松山小学校の南側から南東方向の福田さんちの牛小屋手前まで(3505番地まで)の区画の25町歩を中山定一氏が請負う。二区のうち10町歩弱は、地元の人の誰も欲しがらない程の超荒蕪地であったらしい。開拓地なので当然土地は痩せている。主な作物は小麦、陸稲、馬鈴薯、里芋で、それぞれの収穫量は小麦陸稲で1反100kg、馬鈴薯は1俵の種芋から1俵と非常に乏しい収穫であったようだ。

昭和18年、教習所辺りの桧林が開拓される。

昭和18年、大松山の伐採。小学校北側一帯(3495番地あたり)は大松山と呼ばれた松林で、この松から燃料用の松根油を採取するために住民は伐採に駆り出されたらしい。伐採した松はドラム缶に詰め、現在の中学校(当時は存在しない)の東側の敷地に置かれたらしい。

昭和20年、大杉山の伐採。西海歯科あたり(3485番地)は大杉山と呼ばれた杉林であったのだろう。日本軍が18年に開墾された大松山に野営し、杉林を軍用資材にすべく伐採採取したらしい。始めて間もなく終戦になり軍隊は解散。

昭和21年、買い手のつかなかった大野開墾2区の超荒蕪地10町歩がついに売れた!

昭和21年より黒木山(小学校の西から南西方面の区画)の開拓。栗畑であったらしい。地図上も広葉樹林帯になっている。

昭和23年、熱田村と氏家町が合併。大野から初の町議会議員誕生。

昭和23年より順次通電。

昭和25年、氏家中学校開校。当時は、驚くほどの山の中に建設された印象だったらしい。

昭和26年、大野消防団結成。結成を祝い、3月21日「中学校西脇の馬場地区の水田」を借りて大競馬会を開催。

昭和26年8月16日、公民館の前身の公会堂を建てる。

昭和29年、松田さんらが大野で初めて地下揚水を始める。これを期に、大野全域に地下揚水が広まっていく。

昭和31年、大野地区機械揚水開田組合が発足し、それによる開田面積はおよそ18町歩(P21)。

昭和32年、丸大青果物出荷共同組合が設立。出荷物は里芋。機械揚水を行わない農地では稲作を行うには十分な水がなかったことが窺える。ちなみにこの組合は、地下揚水で稲作が可能になり、赤字でもあったため昭和44年に解散する。

昭和33年、上松山小学校が大野地区に移転。学区は本田、上松山、箱の森、松島、大野、馬場の一部

昭和35年、桜野八幡神社の氏子を離脱。浮いた氏子費用は、以降、班対抗野球大会に使われる。

昭和48年以降、大規模圃場整備計画により道路や用水路が大きく整備されたようだ。取水は市の堀からで、水量は毎秒1.1トン。但し「残水は市の堀に戻すこと」が条件であったらしい。現在の水路の形はこの時に出来上がったものであろう。


<参考資料>
大野のあゆみ(大野行政区平成元年8月1日発行)
明治42年・昭和4年測量の地形図(国土地理院保管の陸地測量部明治42年・昭和4年測図5万分の1地形図)

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